『祈る経験、祈られる経験』
矢野牧子(元九州地区主事)
以前、ある宣教師から「祈りの課題を教えてください。」と言われた。いくつか祈祷課題を挙げると、それだけですか?それから?他にはありませんか?と次々に誘導尋問のように祈祷課題を挙げさせられた。私には、こんなに祈って欲しいことがあり、自分自身も祈るべき課題がたくさんあるのだなあと改めて気づかされる思いだった。そして、こんなに真剣に私の祈祷課題を聞き出してくれたこの先生は、きっと祈りの度にこの祈祷課題を挙げて祈ってくださっているのだろうと心強く感じた。みんなはどうだろうか?祈祷課題を挙げるとき、祈ってもらえる!という確信があるだろうか?祈ってもらえる確信が無いのは、自分自身が祈ってないからではないだろうか。他人のために真剣に祈ってないからではないだろうか。
私が主事になりたての時、英語だらけのあのIFESの祈祷課題に私の名前を発見した。私の知らないところで、会ったこともない人が私のために祈っている。とても感動してゾクゾクした。あなたが、キリストを受け入れ、信仰生活を歩む中で、守られ、祝福を受けてきたその背後で、どれほど多くの人の祈りがささげられたことだろう。それは、あなたが知らないときに、知らないところで祈られていたことだろうし、その祈りは、今も続いているに違いない。祈られていることを知ったとき、その喜びを知ったら、きっと誰かのために祈りたくなるし、祈る恵みにあずかることができる。さあ、今日も祈ろう!!
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペメF16)