『自分探し』
植杉恵(元関西地区主事)
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」詩篇8:4-5

 十代後半から二十代前半、いわゆる青年期後期のこの時期は、自分自身に直面し、色んなことにぶつかりながらIdentityを確立していく重要な時期であるといわれています。社会に出る前の最後の学生時代を過ごしている皆さんはこの時期を大切に有意義に送ってほしいと思います。

 さて、今回のコラムでは、シェル・シルヴァスタインという人が書いた「ぼくを探しに」(講談社)という絵本を皆さんに紹介したいと思います。既にご存知の方も大勢いらっしゃると思いますが、簡単に内容を説明すると、主人公の"ぼく"は本来まんまるい形をしているであろう存在なのに、一部がかけているために「何かが足りない それでぼくは楽しくない」と感じているのです。そしてそんなぼくが自分の欠けた部分の足りないかけらの"ぼく"を探しに旅に出かけていく・・・。"ぼく"はまんまるい形でないために早く歩くことができません。ゆっくりと周りの景色、虫や花を楽しみながら旅をし、その間、何度か色んなかけらに出会いますがどれも"ぼく"にしっくりきません。しかし、やっと自分にぴったりのかけらを見つけ、それをはめた"ぼく"は、まんまるい形になったためにぐるぐると回転してしまって今まで見えていた周りの景色が見えなくなってしまう。そのことに気づいた"ぼく"は結局はめたかけらをおいて、またゆっくりと自分のかけらをさがす旅に出かける…というお話し。この物語の受けとめ方は様々だと思いますが、私は主人公"ぼく"が自分のかけらを探しに、自分探しの旅に出た、ということに注目したいと思います。"ぼく"は物語の最初に「ぼくはかけらを探してる 足りないかけらを探してる ラッタッタ さあ行くぞ 足りないかけらを探しにね」といって旅に出かけます。自分の中の欠けたものを求めて、その自分自身に出会うための旅、自分探しの旅に出る。それは最初に述べた青年期後期に通るプロセスととてもよく似ているのではないでしょうか。「自分とは一体何者なのか?」という問いにぶつかる時に、是非そこから逃げないで真剣に考え、その問いに向き合ってほしいと思います。

 冒頭にあげた聖書の言葉、詩篇8編はイスラエルの王であったダビデが青年時代にうたったものとみられています。若き日のダビデも「人とは、何者なのでしょう。」と問いました。勿論、このような問いは青年に限らず人間の一生の問いなのかもしれません。しかしダビデは「人とは、何者なのでしょう。あなた(神)がこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」と告白しました。それは単に自分が何者なのか?という問いではなく、神の前に自分とは一体何者なのか?という問いです。この"人・人の子"とは原語へブル語では"人間のとるに足らぬ足りなさ"を表わす語です。そしてそのとるに足らぬ人間に対して、神(あなた)は"心に留め、顧みられる"のです。何故、天地万物を創造された神が、とるに足りない小さな人間を心に留め、顧みられるのでしょうか。詩篇8編を続けて見ると「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」と書かれています。これは、神は天地を創造された時、人間だけを神に似せて、神のかたちに創られたということを表わしています。しかし最初の人アダムが神に背き罪を犯したために、人間は神の前に著しく罪人として忌み嫌われる、怒りを受ける存在となりました。けれども神はこの神の怒りを受けるべき罪人の人間に、再び神のかたちを回復するための方法、神との和解の手段として、神の一人子イエス・キリストをこの世に送り、彼を十字架につけることによって、そこに人間の罪を負わせられたのです。これはただただ、神の人間に対する深い愛としか言えません。人間は神によって差し出された和解の手段、イエス・キリストの十字架の死が自分のためであったことを受けとめ、神の前に自らの罪を告白し、神と共に歩むことが求められています。人間という言葉はギリシャ語で?νθρωπο?(アントゥローポス)といい、「上を向く」という意味です。その上とは神のことを指しているといわれています。つまり、神の方を向く、神を見上げる存在、それが人間だということです。

 私たちはそうした意味において人間として生きているでしょうか。「自分とは、人間とは一体何者なのか」という問いに直面する時に、是非、聖書から探りつつ、自己を確立していって頂きたいと思います。
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