『生・性・聖 その5』
高木実(関西地区主事)
 前回、「神のかたち」ということから、男と女、性ということについて学びましたが、今回は「異性を見る目」について考えたい、と思います。

<異性を見る目>

 異性に対しても「神のかたち」として見ること、そして詩篇139篇にあるように「恐るべく奇しく造られた」存在(fearfully and wonderfully made)として見る、ということが大事です。

 女性は、男性から自分が女性として見られることをどのように感じているでしょうか。
 男性は、女性をどういう目で見ているでしょうか。
 自分(私)は、男性(あるいは女性)としての体をもって生まれた男性(あるいは女性)としての異性を、どのように見ているのでしょうか。

 アダルト・ビデオを始めとする様々な形態での性風俗産業などは、「神のかたち」に造られた人間(特に女性)の尊い性やからだを商品化し、女性を人格として見るのではなく、モノとして扱っている、という点が重大な過ちだと、思います。
(このことについては≪堕落≫というテーマに進んだときに、さらに触れたいと思います。
今は、ちなみに≪創造≫というテーマの中で考えています。)
 そのようなもので満ちている世界に生きる私たちも、それに影響されやすいので、気をつけなければなりません。
 そして、異性のことを「神のかたち」に造られた尊い人格として見れるように、心から願いたいと思います。

 特に男性クリスチャンにとっては、
「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)
というイエス様の言葉について、随分と葛藤し、悩まされる現実があるのではないでしょうか?
 特に、男性が女性を見るとき、ある程度の性的な本能のようなものが働く現実があると思いますが、その全てが全面的に悪い欲望という訳ではないと思います。
 前回、既に学んだように、神が「お造りになったすべてのもの」(1:31)の中には、私たちの「性」つまり性別、性的な欲求や性的な交わりも含まれており、それも「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)と言われているのであれば、男女が性的に慕い求める欲求があること、特に視覚的には男性の方に、そのような欲求が強いと思われる現実、それ自体も、神様の創造の御業の秩序の一つと考えられます。

 それでは、どこからが「情欲をいだいて女を見る」ことになるのか?
 そして、どこまでなら淫らではない正当な性的欲求なのでしょうか?
 ある人は、ここで「心の中で姦淫を犯す」というのは、一時的に女性に対して性的な本能が働き出すことではなく、それ以上のことで、それは淫らな思いを頭の中でもてあそぶようにして淫らな空想をすることだ、というようなことを言っていました。
 そのような解説もある程度、理解の助けになるかも知れませんが、その厳密な定義や線引きは、大変に難しいことで、今の私には正直言って、自信を持って断言することができません。
 しかし、ある人(それはマルチン・ルターだとずっと思っていましたが、最近読んだ本では、それがアッシジのフランチェスコだとのことでした...)が、こんなことを言っていますが、そのことは現実的な助けになるのではないでしょうか。
頭の上を誘惑の鳥が飛び回ることは、誰にも避けることができない。
しかし、その誘惑の鳥が、髪の毛の中に巣を作ってしまうのを防ぐことはできる。
 勿論、そんなになるまで、放っておいたとしたら、そのことについて、その人は当然、その責任を問われなくてはならない結果を招くことになる訳です。
 罪深く、意志も弱い私たち、しかも青年期(後期)にあって、特に性的な欲求や衝動も強く、それを刺激する誘惑も多い現実の中に生きている学生の皆さんは、自分に「できないこと」をわきまえ知ることと同時に、自分が当然「するべきこと」、あるいは「できること」も、しっかりわきまえ知ることが大事だ、と思います。

 聞くところによると、ある種の仏教では、女性の体を直視しないで、その中にある骸骨(死の現実、肉体の衰えの現実)を見るようにして、煩悩に惑わされないように努める、とのことらしいです。それも、一つの知恵なのかも知れません。
 しかし、聖書の世界は、もう少し肯定的で積極的で、しかも、おおらかですらあるようにさえ思います。
 創造主である神さまと私との関係の中で、それに相応しい見方で、異性を見る、ということです。
 そして、それは「神のかたち」として「恐るべく奇しく造られた」存在に相応しく、感謝の目、畏敬の眼差しをもって異性を見る、ということです。

 聞いた話なので、正確ではないかも知れませんが、こんな話があります。
 アジアのどこかの国で学生伝道の働きをしている若い女性のクリスチャンと、先輩の男性クリスチャンが一緒にいたところに、目の前を抜群のプロポーションの美しい女性が通ったそうです。
 女性のクリスチャンは、先輩の男性が、どのように反応するだろうか、と興味津々だったそうで、「どう思うか?」と尋ねたところ、その男性が、主の御業はとても素晴らしい、と主をほめたたえたそうです。
 そのような反応に、その女性は、そういう男性と共にいることに居心地の悪さや違和感を感じることなく、とても平安な思いが与えられた、とのことです。

 勿論、人それぞれ、こういうことに対する感じ方や受け止め方は違うかも知れませんが、この男性のように、異性に対して「神のかたち」としてそれに相応しく、畏敬の眼差しをもって、主への賛美にいたるような見方で、異性を見れるように、そして共にいる他の異性に対しても平安をもたらすような、そんな成熟を目指したい、と思います。


≪予告編≫

 今まで、5回に渡って≪創造≫という視点から、性の課題について考えてきました。
 次回から、≪堕落≫という新しいテーマに入って、「堕落」によってもたらされた罪の結果としての性の現実ということを共に考えていきたい、と思います。
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