今回は、「神のかたち」ということから、男と女、性ということについて学びたい、と思います。
<「神のかたち」――男と女―性>
私たち人間は、創造の御業の最後、その頂点に、御業の極み(「創造の冠」)として造られ、しかも創世記1章27節を見ると「神のかたち」に造られた非常に尊い存在なのです。
しかも「男と女とに...創造された」(1:27)とあり、その第六日目には、特別に「見よ。それは非常によかった。」(1:31)と言われています。
神が「お造りになったすべてのもの」(1:31)の中には私たちの「生(いのち)」が含まれています。
さらに、その「すべてのもの」のなかには、私たちの「性」つまり性別、性的な欲求や性的な交わりも含まれている訳で、それも「見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)と言われています。
「つまり、性、結婚、性交、家庭は全部、神の創造の目的のなかに、あらかじめ含まれていたのである。」
(ジョン・ストット「地の塩、世の光」p.88)
KGKやIFES(国際福音主義学生連盟)に多大な影響を残されたハンス・ビュルキ先生の「十箇条宣言――人間としての性的成熟を目指して」の中でも、以下のように言われています。
「私は、性的感覚を恐れたり、避けたりする必要がない。
それは私に益を与えるもので、害をもたらすものではないからだ。
それがなくては、私は男性(女性)であり得ない。
私の全身に生気を与えるものとしてそれを喜ぶことを学ぼう。
この感覚自体は、官能という言葉に含まれるとがめから自由なのだということを覚えよう。
また、性的欲望をことさらかき立てることなく、放縦や悪習に陥ることなく、性的感覚を正しく自覚することを学ぼう。」
「性」そのものは、決して汚れたものでも、避けるべきものではないのです。
<自分の性を見つめる目>
自分の「性」が受け入れられない...何で自分は男に(あるいは女に)産まれてきたのか...と感じている人もいるかも知れません。
女性の場合は、性的にからだが成熟する段階から生理的に苦痛を伴うような経験があり、個人差も随分あるようですが人によってはそれがひどい場合に、女性としての自分の性を積極的に受け止め難くなることもあるようです。
あるいは、心無い男性から受ける心無い行為などによって、自分が女性として生まれてきたことを疎ましく思わざるを得ないような、そんな経験をすることさえあります。
このようなことに関して、私たち男性には大いに責任がある、ということをしっかり自覚しておかなければなりません。
そして私たち男性は、女性を単なる性的な欲望の対象として見るのではなく、「神のかたち」に造られた尊い人格として見る、ということを聖書から学ばなくてはならない、と思います。
そのようなことも踏まえて、創世記から女性に関する見方について、特に二つの点に注意を向けたい、と思います。
1)まず第一に、女性は「助け手」(創世記2:18、20)と言われていますが、これは決して下に見下した「助手」ではありません。
この「助け」とは、「神は我が助け」(詩篇46:1)と告白するときの「助け」と同じヘブル語なのです。
神がどのような助けを与えてくださる方であるのか...ということを学ぶように、との配慮もあって、男に「助け手」として女性を与えてくださったのではないでしょうか。
そのように非常に尊い存在としての「助け手」なのであって、ましてや男の性的欲望のはけ口などでは決してないのです。
2)次に、創造の順序に注目したい、と思います。
最後に人が「神のかたち」として、さらに「創造の冠」として尊く創造されました。
そして女性は男の後に造られた、ということを考えると、まさに女性は「創造の冠」のさらに極みとして、より高度に繊細に創造された...ということさえ言えるではないでしょうか。
創世記1章は、女性を見下した存在として決して描いていないのです。
勿論、自分の性を受け入れがたい、という現実は、女性だけの問題ではなく、ある男性にとっても深刻な課題である場合もあります。
しかし前回、詩篇139篇14節で、私たち人間は「恐るべく奇しく造られた(I am fearfully and wonderfully made)」尊い存在である、ということを学びましたが、自分をそのような眼差しで見ることができるようになる、ということが非常に大事なことではないか、と思います。
神さまは、男性(あるいは女性)としての体をもって生まれた男性(あるいは女性)としての私を、どのように見ておられるのでしょうか。
それに対して自分(私)は、男性(あるいは女性)としての体をもって生まれた男性(あるいは女性)としての自分自身を、どのように見ているでしょうか。
ビュルキ先生は次のように促します。
「あなたは自分を中性化し、人間一般という類型に自分をはめ込む必要はない。
姉妹として(兄弟として)、はばかることなく、女性(男性)であってほしい。
これまでにまして勇気をもって、性というあなたに与えられた賜物をあなたの人格に統合し続けてほしい。」
(「十箇条宣言――人間としての性的成熟を目指して」)
「性」というものは、単なるからだの一部としての性器や性的な行動としてあるのではなく、むしろ私たちの存在(人格)の中で相応しく位置付けられるべきものなのです。
十字架の贖いによって新しく生まれ変った者として、自分の「性」の問題に関しても、聖書的な価値観や考え方によって、新しい関係を持つ者とされていることを覚えたい、と思います。
それでも、この点で難しさを覚える現実があるかも知れません。
青年期にある皆さんは、ルックス(容姿)やスタイル、プロポーション(体型)のことでコンプレックスを持つことが多いかも知れません。
目が小さくて細い、鼻が低い...とか、背が低い、足が短い、足が太い、痩せている、太っている...とか...。
しかし自分のからだや「性」を、神さまとの関係の中で相応しく受け容れる、ということが大切だと思います。
自分のからだを「これが神さまが私に与えてくれたからだだ...感謝します。」と受け入れて喜べるようになると素晴しいと思います。
「恐るべく奇しく造られた」のは、筋肉質の均整のとれたからだ、スーパー・モデルのような抜群のプロポーションの人のことだけなのでしょうか?
勿論、そんなことは決してありません。
もし、そんな風にしか思えない現実があるとしても、そのような価値観は、あくまでも人間の目(世間の時代的な視線)によるものだ、ということを覚えておきましょう。
人(あるいは世間や時代)が、どのように見ているか、ということではなく、あるいは自分が、どう見ているか、ということでもなく、私たちの造り主なる神さまが私のからだや「性」を、どのように見ておられるか、ということこそが大事なのです。
神さまの眼差しは、どう見てくださっているのでしょうか?
ハンス・ビュルキ先生は、次のようなことも言います。
「私の顔は、人としての生き生きとした姿を表している限り美しい。
私のからだも、足も、腕も、胸も、性器もみなしかり。
すべての感覚が目覚め、十分に見ることができ、聞くことができ、かぐことができ、味わうことができ、感ずることができるとき、いのちの喜びがある。
あなたが中心から生きようとしているとき、あなたは何と美しく、自然で、喜ばしげなことか。」
(「十箇条宣言――人間としての性的成熟を目指して」)
私たちを「神のかたち」に造ってくださり、「見よ。それは非常によかった。」と言ってくださった神さまは、きっとビュルキ先生が言う以上に、「あなたは何と美しく、自然で、喜ばしいことか」と言って、私たちを尊く見ていてくださっているはずです。
《予告編》
次回も、「神のかたち」というテーマにとどまり、今度は「異性を見る目」について学びたい、と思います。