『マルコ6:34〜44「あなたがたの手で・・・」』
高木実(関西地区主事)
今日は、KGKの学内伝道のことを考えながら、御言葉からともに学び、励ましを受けたいと願っています。
学生時代に聞いた、KGKの主事のメッセージが、今も印象深くに残っています。
それは、親しい友人がいなくて、授業が終ると教室の片隅に取り残されてしまうような孤独な学生のところに、自分から近付いて友達になるように心掛けよう...というもの。
彼らの心の友となるとき、そこに福音の大きな需要(?求め)があるのかも知れない・・・と。
実際、この春の新学期というものは、特に新入生にとっては、新しい友達をつくって、一人孤独に取り残されないようにする、ということに対して、ナーヴァスになりやすい時期ではないでしょうか...。
一人で昼食をとっていると、友達のいない欠陥人間の様に見られるのではないか、と無理をしてでも友人の輪(和)の中にいる場を見つける...らしい。
多かれ少なかれ、意識しているか否かは別として、皆、心の深いところに不安を抱いているのではないでしょうか。
≪人々の霊的な必要を見る視点≫
マルコ6章には、多くの人々が、イエスの評判を聞いて、「一斉に駆けつけ」(33新共同訳)集まってきた様子が描かれています。
弟子たちは、この多くの群衆を見て、きっとうんざりとした気持ちになったのではないか、ということが、彼らの言葉(35〜36)から容易に察することができます。
ところがイエス様は、その「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(34 新共同訳)...と記されています。
イエス様は、ただ単に群衆を見ていたのではなく、その深いところで人々の霊的な必要を見抜いておられた、ということです。
そして彼らを「深く憐れみ」(新共同訳)「かわいそうに思われた」(マタイ9:36 新改訳)・・・。
このイエス様の視点、そして、このイエス様の心を、私たちも持ちたいと思います。
皆さんのまわりの学生たちも、まさに「飼い主のいない羊」のように、さ迷っている...とは言えないでしょうか。
生きる目的、人生の意味ということを考えて、それをしっかりとらえて生きている学生は、何と少ないことでしょうか。
大体において、ものごとを深く考える、ということ自体が軽視されてきている風潮にあります。
そして反対に、純真で真面目な学生などは、変なものに惑わされて、変な宗教に引きずり込まれてしまう訳です。
新興宗教ブームの中心的な担い手が、若者たちである、という事実にも、そのことがよく現われているように思います。
≪あなたがたの(手で)彼らに≫
そんな学生たちに対して、何とかして福音を伝えたい、と思っている訳です。
しかし、KGK運動の現実は…と言うと、それは「パンが五つと魚が二匹」という貧しさの中にあります。
キャンパスの中の学生たちという大群衆に対して、クリスチャン学生はホンの一握りしかいない、という現実があります。
「自分たちで一体何ができるんだ?」と思ってしまいます。
学内での現実は・・・というと、喜びに満ちて主を証し伝道していく、というようりも、むしろがっかりさせられるような経験の方が多いような気さえします。
学生という大群衆の彼らに対して、その必要には、到底応えられそうにない、ということは言うまでもありません。
しかし、そういう貧しい現実の中でこそ「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」というイエス様の声を聴く思いがします。
イエス様の言葉に、弟子たちが信仰を働かせて応答した...という様子はありません。
ただ、どう考えても足りない「五つのパンと二匹の魚」をイエス様の前に差し出しただけのように見えます。
そして、イエス様が祝福されたパンを分配する奉仕をしただけなのです(41)。
しかし、その結果は...。
確かに、私たちの現実は貧しいかも知れません。
しかし、その少しばかりのものを、主の御前に持ってくるとき、そして、それを主が祝福して用いてくださるとき、何かが起きる...。何かを主が起こしてくださるのです。
KGKの活動の大切な精神の一つに「学生主体」というものがあります。
これは、学生伝道の主体、担い手は誰なのか(学生に伝道するのは誰なのか)?・・・というと、「それは学生である自分たち自身なのだ!」ということです。
大学の中で伝道するのは、あるいは自分の友人に対して伝道するのは、KGKの主事(スタッフ)やクリスチャンの大学の先生、あるいは学生伝道に重荷のある近隣の教会の牧師や宣教師の先生方ではなく、「それは学生である自分たち自身なのだ!」という自覚を大事にしているのです。
そして、それは言い替えるならば、この箇所の「あなたがたの手で...」(37 口語訳)「あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」(37 新改訳)イエス様の言葉に、今、手にあるものをもって、それを主の御前にささげて応答しようとする姿勢に他ならないのです。