『生・性・聖 その2』
高木実(関西地区主事)
《創造》

 創世記1〜3章では、聖書の中心的な教えのほとんど、あるいはその土台が、既に教えられている、と言われます。
 聖書全体が、枝を広げ、実を結んだ木の全体だとすると、創世記の1〜3章は、その「種」みたいなものものです。
 ですから、これを学ぶことには、この男女の課題や性の問題というテーマに関しても非常に重要な意味がある、と言えます。

 <創造者と被造物>

「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)
 「キリスト教信仰(それゆえ、キリスト者的思惟)にとっては、時間のはじまったその時点で、神が宇宙を無から造りだしたということは、他の何にも優先される絶対的基盤である。」(ストット「地の塩、世の光」p.77)

 創世記1章に語られている創造の業について、「無からの創造」ということが「他の何にも優先される絶対的基盤」であり、それは、この男女の課題、性、恋愛、結婚というテーマに関しても「他の何にも優先される絶対的基盤」である、ということです。
 そのようなことを踏まえて、創世記1章の本文を見ていきますが、まず、その1章全体にはどのような特徴的表現を見ることが出来るでしょうか。

 <パターン1>

1日目 神が「光よ。あれ。」と仰せられた。 すると 光ができた。(3)
2日目 ついで神は「〜」と仰せられた。... すると そのようになった。(6〜7)
3日目 神は「〜」と仰せられた。 すると そのようになった。(9)
    神が、「〜」と仰せられると、 そのようになった。(11)
4日目 ついで神は「〜」と仰せられた。 すると そのようになった。(14〜15)
6日目 ついで神は「〜」と仰せられた。 すると そのようになった。(24)
    そして神は、「〜」と仰せられた。
    このように神は彼らに仰せられた。「〜」
    ついで神は仰せられた。「〜」 すると、 そのようになった。(26〜30)


 このようなパターンの繰り返しによって、「神のみ言葉どおりの結果が生じた、ということ・・・。神のみ言葉と結果との間に寸分の狂いもなかった」(榊原康夫「創造と堕落」p.28)ということが言われています。
 神さまが仰せられた(意志された)、するとそのようになる(実現成就する)、ということ…。それを通して、創造における神の主権的御業、神の絶対的主権性ということが強調されています。


「神が仰せられた」(神の言葉・意思) → 「そのようになった」(成就)
 つまり全能者である創造者の断言、その絶対的な意志というものは、必ず成就する、ということです。そして、それこそが最善である、という絶対的な信頼を持って良い、ということです。

 <パターン2>

 この創世記1章には、もう一つ、特徴的表現を見いだすことが出来ます。

1日目 神はその光をよしと見られた。(4)
3日目 神は見て、それをよしとされた。(10)
    神は見て、それをよしとされた。(12)
4日目 神は見て、それをよしとされた。(18)
5日目 神は見て、それをよしとされた。(21)
6日目 神は見て、それをよしとされた。(25)
    見よ。それは非常によかった。(31)


 この創世記1章2節から2章3節までの記事のほとんど全部は、「秩序を与えること」と「組織化すること」に関する、神さまの御業です。
 すでに触れたように、聖書の「創造」というのは「無からの創造」です。
 しかし、そうでありながらも本当に「創造」と呼ぶにふさわしいのは、無から原料を出現させることだけでなく、さらに自然(あるいは社会)の驚くべき秩序や組織、あるいは美しい調和がそこに造り出された(榊原康夫「創造と堕落」p.16)、という側面が含まれている、と言えます。
 ですから、創造主なる神こそが、世界の秩序や調和(ルール、規範)を、主権的に定めておられる、ということです。
 そして、「それは非常によかった」(31)のです。
 そこには当然のことながら、男女の関係、結婚関係、性的な関係などに関する秩序や調和も、創造主なる神が主権的に定めておられることとして含まれているのです。

 あるプロ野球の審判が、判定に対して選手から激しい抗議を受けたときに、「俺がルールだ!」と言ったそうです。
 判断を間違える可能性のある不完全な人間が、そのように主張するときには、問題もあるかも知れません。(今回のワールドカップでも誤審が問題化しました。その意味では、相撲のようにVTR判定を導入すべきと個人的には考えます。)
 しかし、創世記が語るような「創造主なる神」という存在がおられるなら、その方こそが全てのものを造り、そこに秩序を与えた者として、まさに「私がルールだ!」と言うにふさわしい方ということです。
 そして、そのような男女関係や結婚関係、性的な関係において神が定めた秩序や調和こそが、私たち人間にとって最善である、という絶対的な信頼、それこそが「キリスト教信仰にとっては、・・・他の何にも優先される絶対的基盤である。」(ストット)ということです。

 さらに、この神が全てのものを造られた、ということで、しかも「それは非常によかった」ということであれば、その中には、人間も含まれています。
 さらに、その中にはこの私自身も含まれる訳です。
 そのような「神が全てを造られ、その被造世界を良しとされた」という「創造」に関する教えは、私たちが自分とはどういう者(存在)なのか・・・、そして男(あるいは女)としての性を持って生まれた自分とは、どういう者(存在)であるのか、というアイデンティティーの探求やその確立の課題にも大きく影響するものなのです。
 自分は、たまたま偶然に生まれてきた存在なのか…、そこにはもともと与えられている明確な生きる目的や意味というものはあるのか、ないのか・・・。
 あるいはたまたま男に(あるいは女に)生まれたのか・・・。
 それとも、ある明確な意図を持って造られ、ある明確な目的のために生(あるいは性)を与えられているのか・・・。
 特に私の「誕生」という「生」と、「性別」という「性」を、どのように理解し、それを受け止めるか、ということにも大きく影響してくるのです。

《予告編》

 そのようなことも踏まえ、神さまの創造の業と自分の「生」の誕生ということを深く結び付けて、神の恵み深さを歌っている詩篇139篇を、次回、味わいたいと思います。
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