『自分で聞いて』
嶋田博考(北海道地区主事)
北海道地区ではここ数年、聖研合宿を続けています。その冒頭でよく話す質問です。「幼子イエス様を礼拝に来た東方の博士は何人ですか?」そうすると「3人。」という答えが返ってきます。みなさんはいかがですか。実は「聖書はその人数については明記していません。」というのが正解です(マタイ2章)。
これは一つの例ですが、以外と私たちは「聖書にこう書かれているはずだ」という思い込みがあるのではないでしょうか。『「ああ、聖書ってそう分かっちゃいけなかったんだ。」というような学び方をしなさい。』と言ってくださった方がいました。今でもそのことばに励まされています。
伝え聞いたことを話すときよりも、自分で確かめたことを話すときに説得力があります。「〜だってさ」、「〜っていう話らしいよ」ということばを誰が本気で信じるでしょうか。誰がそこに自分の大事な何かをかけるでしょうか。大学の研究においても、「何かの引用からではなく、一次資料にあたりなさい。」と先生から忠告を受けた人がみなさんのなかにいませんか。
「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと知っているのです。」これはヨハネ4章に出てくるサマリヤの人々の言葉です(4:42)。このサマリヤの人々は、まずサマリヤの女の証言で信じたのですが、その後に彼らもイエスに直接会って、イエスのことばを聞きました。そして言ったのが上のことばです。
博士の人数を「3人」と答えた人の気持ちも分からなくもありません。このあいだ息子の通うキリスト教幼稚園で降誕劇を見てきました。やはり博士は3人でした。有名な聖画でもそうなっているでしょう。「贈り物は3つでした。」という反論も聞こえてきそうです。
しかし、大学生で身につけるべき信仰の姿勢は「自分で聞く」ようになることです。丁寧にみことばを確かめ、そうと分かったら少しでもその通りやっていくこと。その繰り返しがあなたの生活と証に静かで確かな力をつけていくことになります。