「礼拝の聖書的な理解を求めて」(いのちのことば社)という本からの引用です(61-62頁)。この著者は、賛美についての文脈でこの記事を紹介しています。
最近、スティーブ・リースという方の「何を歌ったらよいでしょう」という記事を読みました。その中で彼は、アメリカの大学キリスト者同盟で一番人気のある歌を紹介しています。
「ぼくはなりたい 実を結ぶ木に。神が刈り込み芽生えさせた木に。
オー 空までとても高く、高く伸び ぼくはなりたい なりたいんだ 花咲く木に」
その歌の引用のあと、スティーブ・リースはこう述べています。「我が国で最も頭脳明晰な青年キリスト者が、月曜から金曜まで量子物理学を研究し、シェークスピアの十四行詩の文学的分析を執筆する。それから土曜の夜になると『ぼくはなりたい 実を結ぶ木に』と歌い出す。それは神に対する侮辱である。」要するに歌詞が貧しいといっているわけです。・・・
「大学キリスト者同盟」とはInter-Varsity Christian Fellowship(IVCF)で、北米のIFES団体、すなわち北米のKGKです。これを読んで、みなさんはどのような感想を持ちましたか。最初、私は複雑な心境になりましたが、これは正面から受け止めるべきことであると考えさせられました。
ここでチャレンジを受けることは、神様に関することは少々手を抜いても差し支えないという私たちの意識です。果たして私たちは、レポートやテスト、講義や実習に取り組むのと同じテンションで、聖研やそれに関わる奉仕に取り組んでいるでしょうか。もしかしたら、態度や熱意や意気込みにおいて差があることに気づくかもしれません。例えば、ゼミの発表の準備なら、細心の注意を払って少々難しい辞典さえも使って丹念に調べるが、聖研の司会だと「なんとかなるさ」と聖書辞典を調べない。もしそうなら、自分のうちで差をもうけているといえます。聖書は何というでしょう。
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(マタイ22:37)
あなたが目に見えない神様に対してこそ、知力を含めた最善を尽くすこと。その生き方が生きておられる神を指し示す指です。まさにそれが「全生活を通しての証」です。
サッカーのJ1のファースト・ステージで優勝を果たした横浜Fマリノスの岡田監督は、「ニューヨークの地下鉄は落書きが落書きを呼ぶ」といって選手たちを励ましたそうです。練習でのさぼりや手抜きが蔓延しないよう戒め、主体的な態度と雰囲気づくりをしました。
さて、私たちはどうでしょうか。今年も各地区とも夏期学校の時期を迎えています。聖研や賛美その他の場面で、どのような姿を見ることができるでしょうか。私たちKGKも、一人一人が「主を愛せよ」というイエス様の声を聞いて、神様に関することで手を抜かない、誰も抜こうとしない交わりに成長することを期待します。