『存在を喜ぶ愛』
嶋田博考(北海道地区主事)
僕が大学生のときの話。いつもの昼の祈り会でした。文系学部の中間に「軍艦講堂」と呼ばれるところがあって、そのロビーでいつも三人で祈り会をしていました。その日そのなかの一人の友人が僕の祈りの課題を祈ることになりました。「天の父なる神様。御名を賛美します。嶋田くんを感謝します。」と祈り始めました。そのとき心が震えるような深い感動がありました。その友人が神様との関係のなかで、僕の存在を喜んでくれていることを僕は知ったからです。何気ない祈り出しの言葉でしたが、私たちに与えられている交わりの深さを知る思いがしました。
神様もイエス様を愛しておられました。イエス様がまだ何もしていない宣教のはじめ、パブテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と宣言されました(マタイ3:17)。神の御子(一人息子)であるイエス様と神の子(こどもたち)である私たちを厳密な意味で同列に置くことはできません(原典のギリシャ語でも違う言葉が使われています)。しかし、イエス様の十字架によって罪から贖われた私たちも、存在そのものが愛されている者であることは確かです。
聞いたことがあるでしょうか。KGKは「doing」ではなく、「being」を大切にします。何かをする、できるということよりも、主にあって自分が何者であるかが大事だということです。
大学時代、KGKのなかでの役割や、教会での奉仕、バイト、大学の勉強、町の吹奏楽団、家族のことなどでいっぱいいっぱいになっていったことがありました。そのとき、自分の心の中で使う言葉を変えました。それまでは「神様のために」という言葉で考えていましたが、「神様とともに」という言葉で考えるように心がけました。言葉上はほんの小さな違いでしたが、大きな違いとなりました。「あれもこれも神様のためにしているのに何でこうなっちゃうんだろう」というところから、「あのこともこのことも神様とともにしていこう」という広いところに立つことができたのです。
私たちは、もはや何かをできる(doing)から愛される(being)という世界にはいないのです。イエス様にあって完全に愛されている者(being)として、神様とともにふさわしい何かをしていく(doing)という世界なのです。
さて、時代のメッセージはどうでしょう。僕が感じ取るのは、「自分が認められたいな らそれなりのことをしてみせなさい」という自分をせきたて追いつめるような厳しいメッセージ。また逆に「ありのままの自分でいいのさ」という自己中心を助長するようなメッセージです。どちらもイエス様の十字架なしのところでのメッセージですので、本当の意味で人を生かすものではありません。
私たちはこの時代にあって福音に生きる者です。本当に人間に必要なメッセージを知っているのは神様だけです。時代のメッセージは自然に耳に入ってきますが、神様のメッセージは意識して耳を傾ける必要があります。それにはどうしても静まる時間を必要とします。自分自身を恵みのうちに保つ戦いとすらいえるでしょう。日々の個人的なみことばと祈りのとき、学内グループでのみことばと祈りのときがさらに祝福されるよう祈っています。