『信仰生活のリアリティーを回復する』
大嶋重徳(関東地区主事・元北陸地区主事)
「信仰生活にリアリティーがないんだよな」という声を良く聞く。「どうすれば、リアリティーのある信仰を送ることが出来るんですか」とも聞かれる。
私たち人間にとって、何にも邪魔されず神をリアルに感じることができるのは、堕落前のエデンの園と再臨後の新天新地である。ここには文句なしにリアリティーがある。何故なら神と顔を合わせて交わりを持つことが出来るからだ。聖書の語る神のリアリティーは終末に完成を迎える。今はその途上だ。
今、私たちが神とのリアリティーを失っているのは、そこには罪があるからである。罪とは神のリアリティーを疎外するものと言ってよい。むしろ私たちはその罪の故に、神を知ろうとしたがらないものになっている。それでは、神との生活はこの地上では無理なのか?
いや、そうではない。神はこの地上においても神ご自身のリアリティーをもたらされた。それは言うまでもなく「インマヌエル(神が私たちと共に居る)であるイエスキリスト」の存在である。私たちは神のリアリティーをあの地上の生涯を送られたイエスキリストから受け取ることが出来る。私たちが神のリアリティーを受け取ることの出来る道筋はイエスキリスト以外何一つない。
しかし、あのキリストは昇天されてしまった。今、ここには居られない。ではまたもやキリストのリアリティーを受け取ることが出来なくなったのか?いやいや、そうではない。三位一体の聖霊なる神が私たちを絶えずキリストのリアリティーに導いて下さる。約束された助け主の登場である。
それでは聖霊なる神はどのようにそのリアリティーに導かれるのか?それは誤りなくキリストを証言している聖書と、キリストのリアリティーが差し出されるその聖餐においてである。
聖餐はイエスキリストの血と肉が私たちの前に差し出される。私たちにとってパンとぶどう酒が化体する訳ではない。しかし、あの聖餐は挙げられたキリストが聖霊によって、確かに私たちとキリストが結合する瞬間なのである。ここにリアリティーがある。罪ゆえに神と断絶され、私たちが失ったリアリティーがキリストの十字架の血によって神と和解させられる。そのキリストご自身を、私たちは自分の舌で味わい、目で見、手で触れることのできる。この聖餐をキリスト教会は宗教改革以降も失うことをしなかった。それは私たちの信仰のリアリティーの王道であるからである。
さらに大切なことは次のことである。この聖餐を、私たちは交わりで受け取る。聖餐は一人で行われるのではない。教会共同体で行われる。交わりでキリストを味わうのである。私たちが信仰のリアリティーを失うのであれば、それはキリスト中心にした交わりを失っていることを意味している。神はエデンの園でもアダムとエバという夫婦の交わりを造られた。それがエデンの園における神のリアリティーであったからだ。そしていまや神はあの小羊の婚宴に向かって、私たちを聖霊によってキリストの教会の交わりに導いておられる。私たちが信仰のリアリティーを回復することが出来るのは、キリストが差し出される聖餐共同体であり、その聖餐共同体を愛して止まない教会の交わりに繋がり続けることである。
そのようなキリストのリアリティーを伝える宣教を私たちは交わりを持って為そうではないか?それこそが、KGKが大切にしてきた人格的な伝道ではないのか。