『若き友よ、本を読もう!』
大沼孝(元総主事)
 礼拝説教を聞いていて、よくわかると思うときは、聖書の教え示すことと自分の日常生活が結びつけて理解することができるときです。そんなときは、私は隣に座っている妻と思わず顔を見合わせたりして、お互いに『先生はまるで私たちの生活を知っているみたいだ。今日の説教は私のためだ。』と思ったりしています。説教が日常生活が結びつくとき、大昔に書かれた聖書が、現代の私の心にぐいぐいと迫ってくるのです。

 説教は聖書という66巻の物語を基にして語られますが、物語が読者の心に迫るためには、二つの要素が必要だと思います。

 第一の要素は、物語そのものが人生の暗く込み入った森の中を鋭く照らす洞察を秘めていること。そして、第二の要素は、読者の側に物語が提供する洞察を汲み取る力があること。

 人生の真理に深く根を下ろして、その本質を提示している良質の物語は、第二の要素が養われていない未成熟な読者にも読む楽しさをふんだんに提供し、読者を訓練しつつ、同時に悪と罪と虚無のために覆い隠されているこの世のからくりに目を開かせ、悪魔の罠に気付かせてくれるのです。

 ですから、説教によって生きる民である私たちキリスト者にとって、物語を読むことは非常に大切な訓練と言うことができます。良い物語は、私たちの日常生活と豊かな接点を持っています。若いキリスト者である皆さんには、ぜひたくさんの良い本を読んでいただきたいのです。

 物語の豊かさに気付かせてくれる例として、誰にでも親しみのある童話の話しをしましょうか。

 例えば、『三びきのこぶた』、『さんまいのおふだ』、『三びきのやぎのがらがらどん』(いづれも福音館書店)は、いずれの話しもこぶたや小僧やこやぎといった弱い存在が、狼やトロルや山姥といった恐ろしい敵と遭遇しますが、最後には敵をやっつけてしまうという内容です。敵への対処の仕方はそれぞれ違っていますが、共通しているのは、「3」という数字です。

 この「3」という数字の意味は、恐らく子どもの自立の過程で起こるべき三度の反抗期を意味しているのではないかと思います。子どもは、こぶたや小僧やこやぎに擬せらる弱い存在なのだが、狼やトロルや山姥に擬せられた親や大人との厳しい戦いを通して大人へと自立を勝ちとっていくのだ、ということをこれらの物語は励ましているのではないでしょうか。

 自立への戦いは実に過酷なのです。こぶたの反抗は一度目二度目とも狼に食われてしまいます。一匹目と二匹目のがらがらどんは、トロルとの戦いを自分の弱さを交渉材料にして屈辱を忍ばねばなりません。小僧は逃げるしかないのです。

 しかし、勝利は必ず子どもたちの側にあるのです。小僧は大人の知恵によって、がらがらどんは屈辱を忍び戦えるまで実力を蓄えることによって、そしてこぶたは失敗から学んだ知恵によって恐ろしい敵に勝ち、狼さえ食ってしまうのです。

 これらの物語には人生の真実が隠されています。だからこそ、これらの物語を親は自分が鬼や鬼婆に例えられていることにうすうす気付きつつも繰り返し子どもたちに読み聞かせ、子どもたちは喜んで聞き続けてきたのではないかと思うのです。子どもたちは、親への反抗期のさなかに、親に向かって「この鬼婆!」と叫ぶかもしれませんが、童話を知っている大人なら「親に向かってなんてこと言うんだ!」と怒るかわりに、「ばれたか!?」と笑うことができるかもしれません。(これらの事柄は、松居直『昔話と心の自立』からの受け売りです。)

 本を読むのはある種の『癖』ですから、癖をつけるには面白い本を沢山読むことにつきます。何が面白いかは、人それぞれの好みがありますので、自分が面白いと思う本に出会うまで、諦めずに色々と手を伸ばしてください。私は子どものころのSF好きが昂じて、ファンタジーに満ちた児童文学にはまるようになりました。C.S.ルイスの『ナルニヤ国物語』から始まり、ルイスの友人J.R.R.トールキンの『指輪物語』、アーシェラ・ル・クヴィンの『ゲド戦記』、ミヒャエル・エンデの『モモ』などなど・・・。挙げればきりがありません。こんなにも豊かな世界を知らないで人生を過ごすのはなんとももったいないことです。

 だから、若い友である皆さん、ぜひ本を読もう!本は皆さんを楽しませつつ、主が造られたこの世界の真実の姿を見させてくれるでしょう。
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