『KGKはどんなヴィジョンを与えられているのか』
大沼孝(元総主事)
 ヴィジョン(幻)とは何なのか、ということに関して、ずっとすっきりしない気持ちを抱いていた。いろいろな人が箴言29章18節の『幻がなければ、民はほしいままにふるまう』という箇所を引用して、「だからヴィジョンが大切だ。大きなヴィジョンを持とう。」と語るのを聞きつつ、なにか釈然としない思いがしてきた。一体、誰から与えられたヴィジョンなのか。大きなかけ声、立派なスローガンの背後に、なにかしらの不自然さを感じ取ってしまう意地の悪さが私にあるためだろうか、と思ってきた。

 ところがNIVの訳を見ると、”Where there is no revelation, the people cast off restraint, but blessed is he who keeps the law.”となっている。これによれば、幻とは啓示のことであり、具体的には律法のことであることが分かる。つまり、幻とは人間が作り上げるではなく、本来的に主なる神様から与えられるものであり、それは啓示である所の聖書から来るものであるというつながりが明確である。

 これは最近、ジョン・ストットの本『和解の務め』(すぐ書房)を読んでいて気付かされたことである。ストットは、ヴィジョン(幻)の意味について、この本の中でこう語っている。『わたしはヴィジョンという言葉を、今直面している現実に対する強い不満と、それがどう変わりうるかに関する明確な見通しの合成されたもの、という意味で使いたい。ヴィジョンは現状に対する憤りとともに始まり、代替案を求める熱心な探求へ成長していく。』この「憤り」とは私憤のことではない。神が怒りたもう悪に対する憤りのことである。ストットはこう言う。『神に対する罪である種々の悪にたいする正しい憤り、怒り、憤激が、今日大いに必要とされている。神が許すことができないとみておられるものを、どうしてわれわれが許してよかろうか。』『無感動とは、受容できないことを受忍することである。リーダーシップは、受容できないことを受忍するのを断固拒否することから始まる。』

 この世界のありさまを主なる神様がご覧になるとき、主はどんな思いでおられるのだろうか。それは罪に対する憤激と罪がもたらしている悲惨に対する悲しみではないか。エレミヤ9:1にはこうある。『ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。』エレミヤは、神の怒りを怒り、神の悲しみを悲しんでいたのではないか。それが彼の預言者としての歩みの推進力ではなかったか。

 それではいったい私自身は神の怒りを怒り、神の悲しみを悲しみ、それを何とかしようしているのだろうか。自己実現や自己満足といった願望充足だけに汲々としていないか。自分の安全の確保された、ささやかな箱庭のような世界に閉じこもっていないだろうか。

 エリ・ヴィーゼルの『夜』とトーマス・キリーニーの『シンドラーのリスト』に共通して報告されている興味深い事実がある。それは、ヒットラーによるユダヤ人迫害の初期、奇跡的に虐殺から逃げだすことのできた少数の人々がおり、彼らは自分の町にわざわざ戻ってきて、同胞であるユダヤ人に危機が到来していることを報告したのに、誰もその話を信じなかった。ほとんどの人は、可能な限りの楽天的な観測に希望を置き、現在の生活を捨ててまでしてナチスから逃げようとしなかった。その結果、ナチスは易々とユダヤ人を逮捕し、抹殺収容所に送ることができたというのだ。

 このことは事実を認識することの困難さとその結果の無惨さを示している。私たちが見るべきことを見、その本質を洞察し、具体的に行動していくために必要なものは、神からのヴィジョンである。すなわち、神の怒りを怒り、神の悲しみを悲しむという姿勢である。ヴィジョンを持つということは、決して神の裁きを代行して実施するという意味ではない。だけれども、それは神の願う正義をこの世界に実現するために、岩を穿ち、山を動かすような労苦を主に捧げることを私たちに促すのである。

 なぜなら、私たちの社会もまた、ナチスのようなむき出しの暴力ではないにせよ、それと同質な殺人的非人間的なシステムが堂々とのさばっているからだ。私たちの社会が正気を保っているというのなら、例えば、どうして一年間に約3万人もの人々が自殺し、どうして交通事故で約1万人も死ぬ(殺される)のか。どうして沖縄には在日米軍の基地の約75%が集中したままなのか。なぜ実数200万とも300万とも言われる胎児が中絶され焼却されているのか。なぜ乳幼児や女性が虐待され続け、なぜ学校ではいじめが蔓延しているのか。なぜ政治家も官僚も企業も腐敗から立ち直らないのか、等々。

 ストットは、前述の本を私たちに二つのことを悔い改めることを促して閉じている。悔い改めるべき二つの罪、それは第一に『悲観論という罪』であり、第二に自分が『平凡(であること)を受容する罪』である。神は私たちを特別な目的を持って造られた。神は豊かに賜物を与えている。その目的を忘れ、能力を伸ばすことをせず、悪の力に絶望し、現状に甘んじてはならない。再臨の時までにこの世が完全になることはないにせよ、この世を神のものとする作業に倦み疲れてはならない。私たちのモットーは「めげない、くじけない、諦めない」である。私たちは毎日毎日、この世の悲惨と罪の現実を見ている。それを本気で怒ろう。腹の底から悲しもう。そして、悪と戦うため、行動しよう。主からのヴィジョンに生かされて歩み続けよう。
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