『神のみこころを知る (ローマ12:1-2)』
王美珠(関西地区主事)
<序言>
この間、関西地区の学生総会で「神のみこころとは何か」というテーマで、学生と分かち合っていた。話をする前に、2人の学生に私の好きそうな飲み物(もちろん、お金を渡しましたよ)を買ってきて下さいと頼んだ。一人は、私が担当しているブロックに所属している学生でした。もう一人は他ブロックの学生であった。前者は期待通りに、私の好きな飲み物を買ってきてくれたが、後者は私の好みから外れたということであった。このことを通し、一体何を言いたいかと言うと、続けて読んでもらえたら分かるだろうと。
なぜこの箇所を選んだかというと、関西地区の春期学校の主題講演の箇所でもあるが、学生の興味をそそるだろうという意図もあったからだ。この箇所を通してもう一度、神のみこころについて学生たちに再確認してもらえればと思う。皆さんも知っているように、パウロの書簡では前半が教理的なことで、後半が実践的なことであるという構造が典型的なのだ。ローマ書の後半の内容を簡単に言えば、神との関係・お互いとの関係・世との関係について書かれているように思う。ここでは、中でも神様との関係、特にみこころについて取り上げたいと思っている。
ローマ12:1〜2
<1節>
言うまでもなく、「そういうわけですから」の意味は皆さんも既に知っていると思う。今まで語られてきた事柄をふまえて、これから語ろうとしている実践的な部分を読み手に訴えているのだ。つづいて、「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」と書いてあり、それはすなわち、1〜11章までで、神様のあわれみについてパウロが丁寧に語ってきたということである。
まず、神様との関係においては、2つのことが分かる:
1つは、献身的でなければならないということである。ここでイメージしているのは、旧約時代のいけにえのことだ。傷のない、完璧でなければならないいけにえが規定されていた。ただし、旧約時代にささげられた動物の犠牲と違って、実際にほふられてささげられるものではない。むしろ、私達の全生活そのものが神への備えものであるのだと、パウロが言っているのではないかと。しかも、聖さが求められている。ここでの「聖い」という言葉は、罪を犯さないような生活を意味することはもとより、神の為に聖別することも含まれている。言い換えれば、献身的に神に仕えることに他ならないのだ。
もう1つ、信仰生活を送る上で考えられる最大の支障というのが習慣化・形骸化だということだと思う。ここで、強調しているのは「生きた供え物」と「霊的な礼拝」なのだ。即ち、これは神様との生きた関係を示唆しているとも言える。固まった血がいのちを生き返らせることができないように、習慣に束縛されている信仰生活も私達に、いのちをもたらすことはできない。面白いことに、ここでの「霊的な」という言葉の意味は、原語では「理性的」という意味なのだ(logikos)。この言葉から、ロジカル(logical)とかロッジ(logic)のような言葉が生まれた。何を言いたいかというと、私たちは神様との関係において、意志を働かせると同時に、生きた関係をもっていなければならないのだ。生きた関係の反対は機械的・死んだ関係・硬直した関係なのだ。
では、1節の献身的な思いをどう維持すればよいのか、2節にヒントが隠されている。
<2節>
2節の「みこころ」というのは、私と神様との関係での親密さに間連している。序言のところで、2人の学生に協力してもらったということを書いたとね。どちらの学生が私の好きな飲み物を買ってこれたかということ、それは京滋(京都・滋賀)ブロックの学生だった。一緒に接する機会が多かったからだ。同じように神様と親しくなればなるほど、神様の心臓の音も聞こえてくるのではないかと。私達はともすれば、神のみこころをあくまでも自分の世界だけに限定してしまいがちだ。あるいは、神のみこころをおみくじのように理解しているのではなかろうか。果たして、こういう偏狭な捕え方で良いのだろうか。ここでは、バランスが必要なのだ。
神のみこころは言うまでもなく、既に聖書に啓示されているものでもある。即ち、神にとって関心のあること・神に喜ばれることなどがはっきりと聖書に記されているのだ。しかし、2節を注意深く読むと、キリスト者は世俗の生活において、時に、決断しなければならないことがあるというのだ。だから、ここでは「わきまえ知る」ことの必然性が問われてくる。現実には、この世の中の動向や風潮は、私たちの理性を働かせないようにという構造になっているという気もする。例えば、マクドナルドに行ったら、セット・メニューやお得なメニュがずらりと並んでいる。自分の好きなコンビを考えさせる余地を与えないように思える。生命保険もそうだろう。とりあえず、流れに乗って欲しいという世の中の誘惑が多いのだ。だから、私たちは就職にしろ、結婚にしろ、あらゆる事柄に対してわきまえ知ることが必要不可欠なのだ。この「わきまえ知る」(Dokimazo)という言葉のニュアンスは、本物を確かめる為に、実験を行うというようなことである。科学者のように1つ1つの要素を模索しながら、聖書と照らし合わせながら(「神に受入れられるよう」)、ベストな決断に至らせるということを意味する。要するに、キリスト者の日常生活において必要なのは、神のみこころを判別する正しい理性の働きです。
次に、「心の一新によって自分を変えなさい」という言葉がある。ここで、また面白い発見ができる。私たちの内側の変化は聖霊さまの働きである。しかし、自分の努力も欠かせないというように書かれている。結局は、私たちが霊的に刷新されるかどうか、聖霊さまの業と自分の意志の相互作用にかかっているように思う。
ここでの「心」は、原文では「理性」と書いている。"mind"の意味である。しかも、時制は現在進行形なのだ。即ち、日常的に理性の一新が大切なのだとパウロは言いたかったのではないかと。キリスト者の私たちは、毎日、聖書に養われなければならない。まず、自分の考え方が聖書的かどうかを認識し、そして、聖霊さまの助けを得ながら、軌道修正を目指すということである。
簡単にまとめると、1節の献身的な思いをどう維持するかというと、この世との同化を避け、聖化に励もうということが勧告されている。
最後にこの箇所をどうやって実践していけばよいのかをこれから2つ提案する:
@自分の霊性・霊調を疎かにしないこと
まず、毎日、神様との時間を確保しているかどうかをチェックする。静思の時を規則正しくやっているとしても、神様の存在そのものを喜んでいるのか、それとも、儀式的にやっているのかを自分に問い掛けてもらいたいのだ。次に、自分の奉仕に対する姿勢はどうだろうか。義務感に追われていることが多いのか、それとも、自分が必要とされたい気持ちになっているのかを吟味してもらいたい。そして、自分は霊的に成長しているかどうかを見極める必要もある。
A学内活動を企画するには、「わきまえ知る」こと
学内活動を企画するに当たって、漫然と前の年と同じように行うのではなく、むしろ福音が隅々まで届けられる為に何が必要なのかを探り、あるいは、今のメンバーにとって、どんなことに絞っていけたらよいのか、頭を働かせながら、年間活動を組んでもらいたいのだ。
もう1つは全国レベルや地区レベルやブロックレベルで学んだことをどのように、学内活動に浸透させたら良いのかを考えて欲しい。しかし残念ながら、多くの場合はこうした学びの内容が泡のように消えてしまうことが多かったように思う。それは、主事として虚しさを感じることの1つとも言える。