『神様が見ておられる様に』
成實朝子(東北地区主事)
 KGKが出している『学生の伝道』という本がある。その第2章にはKGKのスピリットが紹介されており、福音主義の説明の中に「『聖書の世界観』に生きる」という項目がある。主事なのにとあきれられそうな話しだが、私は正直に言って「聖書の世界観に生きる」ということばがよくわからなかった。学生の伝道に書かれていることを読むと教えられるのだが、誰かから「聖書の世界観に立つってどういうことですか」と聞かれたら、答えられないような感じだった。

 主事になってもうすぐ4年になろうとする先日、ようやく「聖書の世界観に立つ」ことを自分なりに表現する言葉を見つけた。それは「聖書に書いてあるように(=神様が見ておられるように)、物事を見ていくこと。その価値観に立って生きようとすること。」である。

 これは「私はそう思う。」「そう思わない。」という判断で終わらせていることに、「聖書はどう言っているのだろう。神様はどう思われるのだろう。」という視点を取り入れることから始まる。私のこと、友人のこと、家族のこと、今日も伝えられているこのニュースについて、神様はどのように思っておられるのかを考えてみる。また、学校で教えられていることや友人たちが常識にしていることは本当かと再考してみる。もちろん、考える(想像する?)のは私であって神様ではない。そんなことに意味があるのだろうか?

 私はあると思っている。神様に祈りの中で「あなたはどうお考えですか?」と聞いてみて欲しい。また、ほんの瞬間でも「神様はどのように思われるか」を考えて欲しい。

 そのためには当然のことながら、聖書をしっかり読むことが必要になる。聖書には歴史はもちろん、人間の罪の姿が書かれているが、神様の価値判断が書かれているからだ。神様はどのようなお方か、何を喜び何を嫌われるのか、聖書を読んでいくならばそれがわかってくる。もし聖書を読まなければ、自分勝手な答えを作り上げてしまうことになり、それこそ「意味がない」ことになってしまう…。

 昨年の秋、ある学生が「神様と調子を合わせるようにしたい。」と言っていた。

 あなたは、今、誰とどのように調子を合わせているだろうか。

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12章2節
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