『暑い暑い夏に』
成實朝子(東北地区主事)
 最近、天気予報を見ると最高気温が半端ではない。30度は涼しい方で、35度という気温にも驚かなくなった。冷夏だった昨年と比べて、今年の東北は暑い。私は仙台に住んでいるが、(海風が入るため)比較的涼しい仙台であっても、やはり「暑い」という言葉があいさつのようになっている。
 暑い時には、水分がいつもより多く必要になる。そんな時「喉が渇いた」という信号によって私たちは水分を取る行動に移る。それは体に水分が必要だからだ。

 では、心の渇きについてはどうだろうか。皆さんは「心が渇いている」状態を経験されたことがあるだろうか。
 私は最近、「心の中が渇いていた」ことに気が付いた。この状態を他の言い方で表現すると「落ち着かず平安がない、悲しいような、心の奥の方に疲れがある」状態と言えるだろうか。何か特別なことがあったわけではない。聖書も読んでいた。でもいつの間にか「カラカラになっている自分」に気が付いた。

 このような時、どうしたら渇きを癒すことができるだろうか。
 いろいろな入口があるかもしれない。人に話すこと、本を読むこと、一人で静かに考えること。どんな入口から入っても良いが、その道がイエス様のところに到達しなければ、ほんの一瞬は潤ったように思えてもこの渇きは癒えない。

 イエス様はいつも私たちと共にいてくださるが、私たちの側でイエス様を受け入れない(知らないうちに排除している)ことがあるかもしれない。心の中を他のものが占めていき、イエス様がおられるところをなくしていたのだと思わされた。「心の渇き」はこのことのサインだった。
 私たちがイエス様のそばにいる(行く)ためには、基本的なことだが、みことばを読み、祈ることが必要だ。「私の渇きを知って、癒してください」と祈り、みことばを思い巡らすのこと、つまり、自分の心の中にあることを告白し、神様からの思いを新しくもらうのである。

 イエス様のところへ行こうと思うとき、もしかしたら自分を責める思いが起こるかもしれない。「また前と同じことをしている」「イエス様はこんな私に嫌気がさしているに違いない」etc・・・・・・。
本当にそうだろうか?
 イエス様は、私たちが戻ってくることを待っている。いつも、いつまでも。私たちの主は、そんなに心の小さな方ではない。
 この夏、もし心が渇いていることに気が付いたら、急いでイエス様のところに戻ろう。そこにしか、私たちの心の渇きを癒すところはないのだから。

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネによる福音書7章37-38節)
2001〜2006年度 巻頭言バックナンバー > 成實朝子のバックナンバー