『で、神様は何て言ったの?』
成實朝子(東北地区主事)
2003年1月1日、私は久しぶりに会った友人とお茶をしていた。最近あったこと、今思っていること、うれしかったこと、悲しかったことなどをお互いに話した。
私がある話しをした後、友人は「で、神様は何て言ったの?」と聞き返した。
お恥ずかしい話しだが、この時私は胸を張って「えっ、神様? 何て言っているか知らないし、聞いてもいない。」と返事をした。
この時「何だか責められているみたいだなあ・・・。」と多少の罪悪感を感じながらも「こういう状態が起こったことを、神様はもちろんご存じだけど、こんなことにいちいち答えをくださらないよ。」と根拠のない強気な態度を持ったまま交わりを続けた。
*この根拠のない強気が「自己中心という罪の状態」であると思う。
しかし、その友人と別れた後も、なぜかこのことが心に残っていた。
数日後、聖書を読んでいて、みことばが(まさに)心に刺さった。
「あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。」(申命記6章17,18)
そのとき、ようやく気が付いた。
自分がどう思ったか、どのように見るかだけで判断していて、神様はどう見ておられるのだろうという視点が私の中になくなっていたことを。
神様の見方を知るには、静まって神様のおきて(みことば)を読む必要があることを。その中で神様の前に自分の心を注ぎ出すことができ、また、神様の前で出来事を振り返る(思い返す)必要があることを。
そして、このような出来事を通しても、主はかたくなな私を導いてくださる方であることを。
うれしいことや、やさしいことだけを言う友人ではなく、本当に大切に思ってくれるからこそ苦言も言ってくれる友人を、神様が与えてくださった友として感謝している。