『「あつい」クリスチャン』
田中牧子(関東地区主事)
そろそろ本格的に後期の学校生活が始まり、それぞれが主に遣わされた学内で頑張っていることでしょう。この夏、夏期学校や様々な経験を通して主が与えて下さったチャレンジや課題に取り組もう・・と悪戦苦闘していたり、もうすでに変わらない現実と自分にがっかりしてやる気を失っているかも?
この夏、主はあなたにどのような出会いを与えて下さっただろうか?「こんなクリスチャンになりたい・・!」と憧れるような熱心さや真剣さを持った仲間に出会っただろうか?あまり目立たないけれど奉仕の忠実さや誠実さが光るクリスチャンに出会っただろうか?そして、あなた自身はどのような存在として他の人に映っただろうか?
KGKの交わりの中でも「あの人、熱いよね〜」とか「あんな風に自分は熱くなれない」という言葉は良く聞くように思う。それは多くの場合、比較的明るく元気で、一生懸命さが分かりやすいキャラクターの人に対して使われていて、「自分もそうなりたい」という願いと「どうせ、あんな風にはなれないよね」という諦めも感じられる。ではあなたは何をクリスチャンの「あつさ」として見ているのだろう??
主は私達にどのように望まれているか?それは「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」(黙示録3:15)にあるとおり、熱いクリスチャンであることが望まれている。でもそれは単純にやる気や勢い、キャラクターや性格などの熱さではない。私たちの熱さは冷めやすい。夏にいろいろな励ましを受けて燃えた心もすぐぬるくなる。主に与えられ、仲間に刺激を受けて内側に湧いた熱さは大切なものだ。しかし、それが冷めて「あれは一時的なもので結局元通りか」とがっかりしてしまうときにどうするか?自分の中から熱さを絞り出せるか?
私たちは自分の熱さ・やる気・一生懸命さの限界に立ったときに、主イエス・キリストの私達への「あつさ」を知る。主がどれだけの熱い情熱を持って私達を追い求め、そして今もまだ主の元に立ち返っていない人々を追い求めておられるか。私達を決して諦めないで、妬むまでに愛して追い求めて下さる主の「あつさ」に気付くときに、私達の内側から主をもっと知りたいと求め続ける熱さ、主に仕えていきたい、そのために相応しく変えて頂きたいと願う熱さが生まれる。主の「あつさ」に触れて、示された自分の罪を悔い改め、喜ばれないライフ・スタイルを変革していこうという意志や決断が与えられる。
自分の信仰生活や周りの人達との関係の中でのあばうとさ・いい加減さ・だらしなさに気付かされ、変えられることを願う。そしてまた、同じ自分の弱さに気付く。その繰り返しが私達の歩みの現実。だけど、気付くことができたその時に「どうせ・・」とつぶやきたくなる思いを振り捨てて、主の前に出よう。何度でも悔い改めて、主に変えられる事を求め続ける・・そんな熱さを持ちたいと願う。主イエス・キリストの「あつさ」を知っているからこそ、主を知り、悔い改めることへの熱さを持った者になろう。