『無題』
フィル・マイルズ(元関西地区主事)
 日本に来て、すれ違う高校生の多くが自分の鞄に人形やぬいぐるみなどの小さい飾りをつけているのを見かけました。―ドラえもんやプラスチックの花やすずなどのアクセサリーですね―ずっと「なんのためにつけているのかなぁ」と考えていましたが、やがて「そういう印がなければ、自分の鞄がなかなか見つけられないからではないかなぁ」と思うようになりました。―オ−ストラリアでは、それそれが自分の好きな鞄を選んで買うので、その必要はありません―

 けれども、同時にあの飾りにはもうちょっと深い意味があるんじゃないかとも思いました。その飾りは日本人の個人性の現実を表しているんじゃないかと。日本の社会は人々に一体性を強く押し付けているでしょう。誰もが同じように考え、誰もが同じように動けば、社会全体がうまく動くという感覚です。その鞄は一人の人生全体を隠喩して、たとえ駅のホ−ムにたくさんが並べてあると、日本の社会の理想的な姿は見られるでしょう。皆が同じ姿を持つし、きれいに並べられるもんとなっています。

 また、日本人の個人としての存在はちょうどその飾りのようなものなのではないかと思いました。小さくて、些細なものと言えば。。。ひとり一人は少し違う飾りを自分の人生に付け加えられるかも知れないのですが、結局中心的な姿はほとんど同じです。ある人はサ−フィンが好きで、ある人はケ−キ作り、ある人はプロ・レスが好きでしょう。けれども、それは自分の人生に大きい影響を与えません。

 実は、飾りがなくても、鞄を使えるのと同じように、たとえ市民に個人性がなくても、社会はうまく機能していくと考えられているのではないでしょうか。それは日本で流行っている考え方なのですね。

 鞄の飾りの存在をもう少し深めて考えてみるなら、日本のクリスチャンのよくある姿についても色々考えさせられるでしょう。KGKの交わりでクリスチャンの学生と関わっていて、「飾りの信仰」しか持たないクリスチャン学生が多いんじゃないかと思うことがあります。そんな学生たちにとって「自分はクリスチャンだ」という言葉は、「自分の飾りはキリスト教だ」としか意味しないようです。結局、皆の人生の根本(鞄)は同じなのです。ノンクリスチャンと同じような価値観や人生の目的や日々の生活のありかたを持っています。

 でも、神はそのような信仰を願ってはいません。神は、鞄の飾りをキリスト教に変え て欲しいわけではなく、神は鞄の中身や外の姿も全部変えたいのです。それぞれの高校生の鞄に同じ教科書などが入ってあると同じく、市民の多くは同じ考え方や価値観によって生きています。神はその「教科書」の代わりに皆の人生に違う「教科書」を入れかえたいわけです。それは私たちにとって簡単なことではないでしょう。でも、それこそが聖書の語る信仰です。神が全世界の支配者であるならば、当然彼はあなたが全人格を彼の支配の下に置くことを願っているはずです。

 あなたは、どう思いますか。
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