『傘として生きる道を。。。』
フィル・マイルズ(元関西地区主事)
これからすぐ、梅雨が始まるでしょう。毎日毎日雨が降るかも知れないね。とにかく、降る可能性が高いから、毎日出かけると、傘を持つ方が安全でしょう。まあ、大阪は大阪ですから、僕自信葉一年中、毎日、少なくとも折傘を持って出かけます。よく使っているからかどうか分かりませんが、僕の傘のリブの1、2本はすぐ曲ってしまいます。そんなにきれいじゃないと分かりますが、その傘はまだ僕を雨から守られるほど、その傘を使い続けつもりです。
でも学生が僕の傘を見ると、何とか「マイルズさん、その傘が曲っていますよ」とか「それは壊れていると分かりませんか」などを言ってくれます。最初は、僕は気にせずに「はい、そうですね」というように返事しましたが、その学生の言葉を何回か聞くと、その背景の考えがやっと分かりました(と思う)。多分、一人ひとりが考えていたのは、次のようだったと思います。「もし、自分の傘のリブが曲っていたら、本人はそれを教えてもらいたいでしょう。なぜなら、何かよくないところがあれば、その傘を捨てたいはずですから。」実は僕だったら、傘が曲っても、とにかく雨が降ると自分はぬれなかったら、OKですよね。ちょっとかっこう悪いかも知れないが。。。
でも、そのことでちょっと考えさせられました。日本という国だったら、欠点があまり許されていない国なあ、とちょっと思いめぐらすようになりました。人には足りないところがあれば、どうでしょうか。試験で100%は取れなかったら、批判されることともなるでしょう。生涯がある子は普通の社会の中で歓迎されていないこともあるでしょう。学生の友達関係の中で、誰かが失敗をすれば、相手はそれを全く許せないこともあるのではないでしょうか。結局、曲っている傘のように、人がすぐ捨てられると言えるでしょう。
自分の経験はどうでしょうか。人の失敗を許さなかったことがありますか。自分は人に捨てられたことがありますか。そして、その経験(また、周りの社会の考え方)は自分の神様との関係にどの影響を与えているのだろうか、と考えてみてほしいです。神様は自分に対して、どの程度を持っていると信じていますか。自分は失敗すれば、神様は自分から離れようとすると思っていますか。自分は完璧なクリスチャン生活を送っていないなら、神様は自分を捨てようとすると考えていますか。でも、そうではありません。神様は人間のように動いていないわけですね。それを深く理解するまで実は時間がかかると思いますが、自分のクリスチャンとしての歩みの中で次のをゆっくりと考えてみて下さい。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌3:22