『主体的に生きよう』
岸本大樹(関西地区主事)
作家の吉岡忍さんが『「自ら動く人間」育てよう』と題して朝日新聞に次のようなことを書いておられました。
結局、日本の教育は「使われる人間」しか育ててこなかったのではないか。学校はだれかに、あるいは何かに使われるためのトレーニングの場にすぎなかったこと。おとなしくか、要領よくか、有能にか、ともあれわが身を、使われる人間としてしか思い描けない日本人ばかりを育ててきたのではなかったか。
(朝日新聞大阪本社版 2005年1月15日 35面「私の視点 2005年に寄せて」)
これを読んで考え込んでしまいました。もしかするとKGKも「使われる人間」しか育てていないのではないか…、と思ったからです。主事として学生たちとの関わりを大いに反省させられました。
KGKは学生主体ということを大切にした運動です。御言葉に養われつつ、キリスト者として主体的に生きる。これがKGK運動が大切にしている生き方です。
主体的に生きたキリスト者。私はそれを聞くと、『使徒の働き』に登場するピリポを思い出します。
サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。(使徒の働き8章1〜5節)
エルサレムに激しい迫害が起こり、使徒以外の人たちがユダヤやサマリヤなどの地方へ散らされていったことがここに記されています。散らされた人たちは散らされた先で何をしたのかというと、福音宣教です。ピリポはサマリヤへ行って、他の人たちと同様、キリストを宣べ伝えました。
ピリポは使徒ではありませんでした。『使徒の働き』の6章を見ると、使徒たちが祈りと御言葉の働きに専念するにあたって、それまでは使徒たちが携わっていた配給の働きを代わるため、ピリポと他の6名の者が選ばれています。つまり、御言葉よりも配給こそがピリポの主な働きであったのです。その彼が迫害によって散らされ、サマリヤへ行きました。それは当時のユダヤ人が宗教的・民族的に対立していたサマリヤ人がいた町です。配給の働きに専念していたピリポが、迫害の危険が迫る中、普通なら足を運ばないようなところへ行って、キリストを宣べ伝えたのです。
なぜピリポはサマリヤでキリストを宣べ伝えたのでしょうか。
それは、彼が主体的に生きたからです。「今、私は何をすべきか」ということを考え、祈りつつ決断し、行動したからです。強いられたからではありません。義務感からそうしたのでもありません。自分にできることを、精一杯やったまでのことです。どんな状況であろうと、「主が私に何らかの計画を持っておられるに違いない」と信じて、与えられた務めに励んだのです。
私が神学校に入って間もない頃、当時の神学校の校長であったマーティン・クラーク宣教師が一つの質問を投げかけてきました。
「あなたはなぜ伝道するのですか。」
私は自信満々で答えました。
「それはキリスト者の義務であるからです」
それを聞いたクラーク先生は、「それだけですか」と反論されました。私は少々ムッときて、「義務であることの他に何があるんですか。聖書にちゃんと書いてあるじゃないですか」と言い返しました。
するとクラーク先生は、次のようにおっしゃいました。
「私たちが伝道するのは、確かにキリストがお命じになったからです。しかし、それ以上に大切なことは、私たちの内側の問題です。罪人の私たちを愛して、私たちのために命を投げ出されたキリストに応えるために、私たちは伝道するのではないでしょうか。キリストに救われた喜びがあるからこそ、伝道せずにはおれないのではないでしょうか。私たちに何ができるのか、強制されてではなく、救いの喜びから考える必要があるのです。」
これを聞いて、頭をガツンと殴られたような気がしました。伝道や奉仕ということの原点を改めて教えられたからです。それと同時に、学生時代にKGK運動で教えられた主体的に生きるということを改めて思い起こしました。その後、主体的に生きるということを考える度に、私はこの出来事を思い起こします。
キリスト者は、本来、「使われる人間」ではなく、「自ら動く人間」です。神に従うという一面はありますが、イエス・キリストの恵みに応えるという点で、御言葉を通して考え、「自ら動く人間」になることができるのです。
今、私を含めてKGK運動に関わる全ての者に求められていることは、この「自ら動く人間」になるということかもしれません。「あれはできない。これもできない」と言う前に、「誰かがやってくれるだろう」と思う前に、自分が何をなすべきか、自分に何ができるのか、しっかり考えようではありませんか。周囲の目を気にしたり、自分のことばかり考えたりするのではなく、時には犠牲を払うことを覚悟して、キリストに応えていく者でありたいと思います。どのような状況にあろうとも、小さな働きであろうとも、キリストは必ず私たちを祝福して用いてくださるはずです。