『沖縄で考えたキリストの言葉』
岸本大樹(関西地区主事)
 10年ほど前のことである。牧師の友人に招かれて沖縄を訪れた。私にとって2回目の沖縄であった。目的は礼拝のお手伝いであったが、最初の訪問は観光も何もしないまま短い滞在で終わったため、2回目のこの時は、「色んなところを見て、エンジョイしてやろう」と期待に胸をふくらませながら足を運んだ。
 しかし、沖縄に着いて2日目、南部戦跡へ行って事情は一転した。平和記念資料館や平和の礎などを見学して、沖縄戦の悲惨さを教えられ、観光気分は吹き飛んでしまったのである。

 第2次世界戦争末期、日本で唯一の地上戦が行なわれたのが沖縄である。3ヶ月にも及ぶ戦闘の結果、23万人以上の人たちが犠牲になったが、その大半は一般市民である(沖縄県民の4人に1人が犠牲となった)。しかも、「集団自決」や日本軍による住民虐殺があり、軍隊は一般市民を守ることはなかった。沖縄の方言をしゃべっただけでスパイ扱いされ、日本軍に殺された者があった。ガマ(鍾乳洞)の中に隠れていた乳児が、泣き声で米軍に見つかることを恐れた日本軍に殺されたこともある。この他にも言葉に詰まるような悲惨な出来事が数え切れないほど沖縄で起こっている。
 沖縄戦の実情を知れば、どんなに奇麗事を並べても、戦争に賛成することはできないと思う。戦争は人を残虐にし、尊い命を奪うものであることが沖縄戦からわかるだろう(KGKの学生諸君には、沖縄の戦跡へ行くことをお勧めする!)。

 この2回目の沖縄で、戦争の愚かさと恐ろしさを教えられた私は、次のキリストの言葉を思い出した。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5:9)

 平和を願う者は幸いである、とキリストは言われたのではない。平和を実現する者は幸いである、と言われたのである。私はこの言葉に「ハッ!」とさせられた。
 もちろん、平和を実現することが救いの必須条件ではないことや、平和という言葉に多様な意味があることを知っていたが、この言葉には心に迫るものがあった。この言葉を通して、平和のために私も何かすべきではないか、何かできることがあるのではないか、と考えさせられたのである。
 街中で声高らかに「戦争反対!」と叫ぶことなど、意気地のない私にはできない。ましてや私のような人間がでできることは小さいかもしれない。しかし、少なくとも無関心であってはならないと思った。自分でできることを模索するべきだとも思った。
 その後、日本の教会の戦中史を学び直したり、学生を連れて沖縄で平和学習に参加してみたり…、と試行錯誤が続いている。特別なことや大きなことはしていないが・・・。

8月になると、戦争や平和のことを考える機会が多くなる。戦争や平和について考える時、沖縄戦とあのキリストの言葉を私は思い起こさずにはおれない。
2001〜2006年度 巻頭言バックナンバー > 岸本大樹のバックナンバー