『信仰書の書棚は充実しているか』
服部滋樹(元東海地区主事)
私が学んでいたウィクリフ・ホールでは、学期中は毎週水曜日の夜が聖餐式の日であった。
聖餐式ではホールの教師またはゲストのスピーカーが説教と聖餐の司式を行った。
3年生のヒラリー・ターム(冬学期)であったが、ある晩のゲスト・スピーカーはケンブリッジにあるティンデル・ハウス(福音主義に立つ聖書と神学の研究機関)の所長を務めるブルース・ウィンター博士(Rev Dr Bruce W. Winter)であった。新約聖書の背景であるギリシャ・ローマ世界について大変深い造詣を持った方であった。学者であると同時にイギリス国教会の司祭(牧師)でもあるという、ウィクリフ・ホールの教師たちと同様、いわゆる「学僧」の伝統に連なる方である。
その晩の説教箇所はヨハネ福音書からであったが、ウィンター博士は説教の中でローマの執政官であったキケロの格言、「書物なき部屋は、魂なき肉体の如し。("A room without books is like a body without a soul.")」を引用され、「君たちは自分の信仰書の書棚を充実させるだけでなく、将来君たちが係わる教会員ひとりびとりに書棚の充実を説いてまわるべきである。」と私たち神学生を励まされた。神学生ですら卒業と同時に神学書を古本屋に売っ払う輩がいたくらいであるから、一般教会員の現状など推して知るべしといったところであろうか。
帰国後主事として復職してから、私はウィンター博士の言葉を事あるごとに思い出している。
学生の自宅や下宿を訪れて、私が真っ先に目を向けるのは学生の書棚である。しかし残念ながら、現状はまことにお寒いものがある。教科書やマンガ・雑誌類の脇で、申し訳程度に数冊の信仰書が置いてあるケースがほとんどではなかっただろうか。「活字が苦手」、「お金がない」、「近くにキリスト教書店がない」等々の理由はまだ許せるとしても、私が気になるのは「親の本を借りればいいから」とのたまう学生の増加である。
現在のKGKではクリスチャンホーム育ちの二世・三世クリスチャンの占める割合が多いからであろうか、信仰書まで親頼みということらしい。私が東海地区の学生たちに口を酸っぱくして説いているのは「そもそも信仰書は借りるものではなく、買うものである。そして親が信仰書を持っていても、絶対に自分の分を買え」である。「信仰書は買うもの」の理由については別途機会を見つけて語りたいと思うが、親の持っている本と重複しても自分の分を買うことについてはこの場で強調しておきたいと思う。これは早い話、学生の卒業後の自立(就職や結婚等)と、自分自身の書棚を充実させて行くことの責任を見込んでの主張である。
親の蔵書は飽くまで親のものであって、あなたのものではない。学生はいつか親から自立して自分の所帯を持って行く。であるなら親とは別に、自分自身で座右の書を傍らに置くことを努めなくてはならない。高校生までは親の蔵書から読書に親しむものであろうが、アルバイト等で自分の稼ぎを手にする大学生は、やがて来る自立の日を見据えつつ、こつこつと蔵書の充実に励んでもらいたいと願っている。重複するものを購入するとは不経済であるが、文化とは本来、非効率や不経済の中で育まれるものである。
先日、うちの高校生の娘が私の書棚からなにやら信仰書を引っ張り出して読んでいた。親馬鹿ながら、とてもうれしい光景であった。あなたも自分の子どものために読書する環境を今から整え始めてはいかがだろうか。いわゆる「結婚・家庭」のテーマは、そこまで射程に入れてほしいものであると思う。