『その涙は何のため?』
浜田進(元東海地区主事)
私はよく映画を観る。そして泣く。でも、それで終わりじゃない。
その涙の意味を自分に問いかける。どうして自分は泣いたのか?と…。

同じ映画を観て、泣く人もいれば、泣かない人もいる。
それは人それぞれの感じ方が違うからだろう。

邦画には日本人の心の琴線に触れるものが多い。
いつのまにかその世界観に引き寄せられ気が付くと泣いている。
でも、どうして泣けるのか深く自己分析する人はあまりいない。
「泣ける!すごく良かった!」と言って終わらせてしまう。

でも、私は立ち止まって考えたい。自分はどうして泣いたのか?
その理由がわかったとき、私は自分が情けなくなり、恥じることがある。
なぜならそれが聖書の世界観とはまったく異質のものであったりするからだ。
そして聖書の示す神の愛よりもその映画に感動している自分を見出すからだ。

あなたは聖書を読んで泣いたことがあるだろうか?
別の言い方をすれば、神の語りかけに人格的に応えて泣いたことがあるだろうか?
「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」(ルカ6:21)
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:4)
これはイエス様が山上の説教で語られたことば。これが映画を観て泣いたり、悲しんだりすることではないことは明らかだ。ここでイエス様は何を泣き、何を悲しむ者が幸いであると言っているのだろう。それは、聖なる神の前で、自分がどうしようもない愚かな罪人であることを認め、自分の罪の惨状を泣き、悲しむ者は幸いであると言っているのだ。
なぜ幸いか?それは自分の罪の現実を認め、神にあわれみを請い、救いを求める者には解決があるからだ。それはイエス・キリストの十字架と復活によってもたらされる。
私たちは自分の罪に泣き、悲しんでも、十字架を見上げるならば、そこには救いがある。そして私たちの罪は赦され、慰められる。涙を拭きながら、次には笑うことができるのだ。

あなたは何に泣いているのか?
その涙の意味をよく考えよう。
それは福音に勝るものであるのか、よく考えよう。
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