『聖研はおもしろい』
浜田進(元東海地区主事)
学生時代、先輩たちが「エマオ」という名の聖研をやっていた。僕は当時「エマオ」って何だ?と不思議に思った。そして先輩に「エマオってどういう意味ですか?」と訊いてみた。先輩はその「エマオ」という名がルカの福音書24章13節以下のところから命名したものだと教えてくれた。最初はよくわからなかったが、その「エマオ聖研」に出てみてその意味がわかった。先輩たちはエマオ聖研の場でいろいろな話をしてかなり燃えていた。「おぉ、熱いなぁ!」と僕は尊敬の眼差しで先輩たちを見ていた。
ルカ24章13節〜
ふたりの弟子たちは、エルサレムからエマオに帰る途中にイエス様が十字架に架かったことや、墓が空っぽになっていたことなどを話し合ったり、論じ合ったりしていた。
「イエス様がイスラエルをローマから救ってくださると望みをかけていたのに、十字架で死んでしまった・・・。女たちはイエス様が生き返ったとたわごとを言っている・・・。」彼らは決して喜んでエマオに帰ったのではなく、むしろ悲しみと失意の中をとぼとぼと歩いて帰っていた。そんなふたりにイエス様が近づかれた。しかし、ふたりにはそれがイエス様だとはわからなかった。ふたりはイエス様を交えて同じことを話し合う。するとイエス様がそのふたりを厳しく叱責された。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」そしてイエス様は、聖書全体からご自分のことが書いてある箇所をひとつひとつ説き明かされた。いわば、「歩きながら聖研」をしたのだ。聖書はイエス様がどんなお方だと言っているのか?そのことをイエス様はひとつひとつ聖書全体から話をされた。ふたりもイエス様にいろいろな質問をしたに違いない。その場は、彼らにとって「心がうちに燃えるような」体験だった。悲しみと失意の中にあったエマオまでの帰り道が、心燃える、喜びの時間に変えられたのだった。エマオに着いたとき、彼らは自分たちと一緒に話をしていたのが、イエス様だとわかった。そして自分たちの心がうちに燃えていたことを互いに分かち合いながら、すぐさま立ち上がり、エルサレムまでの暗い夜道を戻っていった。
聖研はおもしろい。何がおもしろいか?それはみことばを通して今も生きておられるイエス・キリストについて知り、それをお互いに分かち合うおもしろさだ。私たちが聖書を開き、へりくだってみことばに耳を傾けるとき、その場にイエス様も共におられる。そして私たちにご自身について教えてくださる。そして私たちはふたりの弟子が言ったように「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」と告白できるのだ。そのようなエマオ聖研をみんなも体験しようではないか。