『オリンピックを目指せ!』
安藤理恵子(元総主事・元関東地区主事)
ものごとを極めている人は、それぞれそれなりの信心に至る。競技を極め、金メダルを手にする人は、自分の力、運強さ、可能性を信じて走り、跳び、投げる。それ以外の邪念をいかに消し去って、「自分の演技」「自分のゲーム」を出し切るかが勝負の分かれ目だと誰もが言う。それはやはり「信心」であって、そこには「信仰」と共通する経験がある。
すなわち、何かひとつの信心に集中することによって、心に絶え間なく浮かんでくる不安要素を意識的に排除していくという自己コントロールだ。「自分にはできる」「いつもの自分なら勝てる」「負ける気がしない」それは訓練を極めた実力者だけが正当にできる自己暗示だ。そのコントロール力を身につけたものだけが、極限の緊張状態の中でも自分のゲームをすることができる。
信仰も似ている。ひとりの救い主、イエス・キリストの愛と憐れみに自分の信頼を集中させる。「彼は助けてくれる」「彼にはその力がある」「彼は私に悪いことをしたことは今まで一度もないではないか」何があってもどんな状況でも、自分がどれほど情けない渦中にあっても、キリストは自分を見捨てていないことに信頼する。それ以外に浮かんでくる不安はすべて意識的に排除する。「彼は今回は助けてくれないかもしれない」「この前祈りが聞かれたのは気のせいかもしれない」「見えない彼を頼るのはやめて、別の確実な方法を選ぶべきなのではないか」…それらの思いを深く追いかけずに頭から捨て去る。それは信仰の競技を確実に失敗させる罠だからだ。
この神への不信を頭の中で野放しにすることが、ゲームからの脱落を招くことを知っているのは、実際に競技に参加して失敗した過去を持つ人だけだ。あるいは先輩の助言を忠実に真に受けた人だ。キリストへの信仰こそが、自分を力強いゲーム運びに導くことを経験した人は、訓練を極めた者として、初心者よりもはっきりと確信をもって自己コントロールができるようになる。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」第一コリント9章24節
進路を選ぶ岐路に立たされるとき、いつもと違う奉仕に取り組むとき、今までやろうと思わなかった仲裁に入ろうとするとき、未知の緊張感や敗北の予感があるかもしれない。でも、思い出せ。今もこれからも、これまでと変わらないお方が、あなたになりかわって戦いを引き受けてくださる。あなたは彼のからだとなれ。あなたの四肢をキリストにゆだねて、やるべきことに、逃げずに着手しなさい。
場内の歓声が、他の人の演技に向いていることに屈辱を感じる必要はない。背後の人々が何を期待しているかなんて忘れろ。今まで自分が何を成し遂げてきたかも、今の目の前の勝負には関係ない。これまでの人生の中で唯一、確かだったこと。それだけを思い出せ。
「イエス・キリストご自身。彼だけが、私のいのちであり力であり、私の全存在をもって証しすべき方。」
そう思える人が、真のキリスト者としてゲームを治める。
あなたもこの夏、オリンピックに参戦しなさい。