『クリスマスを飾る?いや、キリストを飾れ』
安藤理恵子(元総主事・元関東地区主事)
 この季節、クリスマスを祝う?催しや音楽で街はあふれ返ります。彼らはクリスマスの意味、キリストの正体について知らないまま、楽しさとムードを求めて飾り付けをします。ビルの窓ガラスに浮かぶ大きなツリー、針金で作った巨大なトナカイ、いたるところに流れる讃美歌…すべてにおいてイエスは不在です。しかし、この装飾の愚を笑うのはたやすい。問題は、ではあなたは、何を飾ることに貢献しているのか、です。

 あなたの生活を知る人が「おまえみたいな奴がクリスチャンなら、キリスト教って誰でもなれるんだね」と言うとき、彼がどういう意味で言ったのか考えてみましょう。あなたの自然な気負わない生活態度が、彼の「キリスト教は近づきがたい高尚なものだ」という偏見を崩すことができた、のでしょうか?あるいは、信仰者とは名ばかりのあなたの世俗的な生活を見て「キリスト教って、信じても全然人を変えることができないんだね」と思って呆れているのでしょうか?

 クリスマスをクリスチャンではない人が飾りつけ祝っている姿は毎年のように悲しい情景ですが、キリスト・イエスをクリスチャンが飾れていない、飾ろうとしていない情景のみじめさにはかなわないことでしょう。

「・・・それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。」テトス2:10
 テトスへの手紙でパウロは、老人たち、夫人たち、若い人々、奴隷…いろいろな立場の人への勧めについてテトスにアドバイスしていますが、そのねらいは一貫しています。聖書のことばが未信者から馬鹿にされたり悪口を言われたりすることがないように。これに尽きます。神の言葉がいかにすばらしいか、力があるか、祝福か、ということを生き方によって示せ!と、「クリスチャンのよい言葉や行いによって反対者の口をふさげ!」とパウロは命じているわけです。

 この世の人々にとっては、クリスマスは12月だけ。しかし私たちにとっては毎日がクリスマス。すなわち、毎日がキリストを礼拝するときです。この世の彼らがムードを高めるためにクリスマスに情熱を傾けるなら、クリスチャンは後の世の希望を掲げるためにキリストに日々いのちをささげるべきです。決してこの世と同じレベルでこの時期限定の恋愛至上主義に流されたり、浮かれた忘年会で神への感謝を忘れたり、それらと同じノリをクリスチャンの交わりに持ち込んだりしてはいけません。

「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」
 創造主なる神が、自分の被造世界で抹殺される人生を受けるためにイエス・キリストをお送りくださった。この神の痛みと憐れみを、この街の音と映像にかき消させてはならないのです。
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