『画面ノ向コウ』
安藤理恵子(元総主事・元関東地区主事)
テレビに悲惨な現場が映し出される。それを見る。なんてひどいことだ、と思う。
その場に居合わせた人々の気持ちを思う。胸が痛む。そして見る。もう一度見る。次の日も見る。そしていつのまにか、もっと心を動かされる場面を、もっと「ひどい!」と思わされる場面を、もっと残酷で鮮明な場面を、私たちは画面に期待する。そしてテレビはそれを知っていて、明るい画質で現場の新たな種々の犠牲者たちをレポートする。ここに罪深い大衆心理がある。私たちは同情し、憂える。しかし同時に、他人の不幸を自分の退屈な人生の娯楽にすることができるのだ。同時多発テロにショックは受けるが、自分に差し迫った危険がなければ、画面の向こうの出来事として安心して心配していられる。より強烈な疑似経験をしたいという欲求は、プレステやハリウッド映画によりリアルな迫力を求める気持ちと同じだ。その快感のためには、多少の倫理を心の中で踏みつけにしても、他人にバレなければ、直接誰かに危害を加えない限りは問題ないと感じる。エスカレートしたAVビデオを密かに見るのと一緒だ。
誰にも気付かれなくても、神は私たちの本当の性質を知っている。結局のところ、私たちは勝手で自由な生活をしたいのだ。誰が犠牲になっても、何が警告されても、どんな危険が近づいていようとも、本当にヤバイと感じるまでは自分の好きなように生きたいのだ。そして何となく、自分に関しては本当にヤバイという日は当分やってこないような気になるのだ。状況が許すなら、あるいは環境が求めるなら、私たちは人間として思いつく限りの残虐さを発揮するだろう。歴史がそれを証明している。いつでも私たちの思いは地上のことだけ、自分のことだけだ。真理に鈍く無関心な私たちの愚かさ。神の預言に対する明らかな不信と反逆。これが罪だ。
ある悲惨な事件の報告がされたとき、イエス・キリストは事件そのものについてではなく、事件の犯人についてでもなく、すべての人間の罪とその結果の深刻さを指摘した。
「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」ルカ13:2-3
言い換えるとこうなるだろうか。「その事件の犠牲者が特別悲惨な訳じゃない。彼らだけが罪深くて、罰が与えられた訳じゃない。おまえたちも皆同じように罪深く、同じように悲惨な最期を遂げるのだ。もし悔い改めて神と和解しなければ。」イエスは滅びという私たちに共通の未来を指し示す。こんな場面でこんな恐ろしい話題を切り出すことができるのは、天上の視点を持っているイエス・キリストだけだろう。私たちも鈍いながらも、キリストと同じ視点に立ってみよう。すなわち、画面の向こうの人々の中に、それを見る自分の中に、罪があることを認めよう。この罪が私たちを滅びに招くことを思い出そう。そして改めて、キリストなしでは私たちは決して決して救われないことを思い起こし、畏れ多くも救っていただけたことに感動しようではないか。
終わりの日の今日、神は私たちに「罪を犯していない」という弁明を求めてはいない。それは神をうそつき呼ばわりすることだ。私たちは罪を犯している。しかし私たちの罪はイエス・キリストによってすでに完全に贖われた。今、神が私たちに要求しているのは、「私は罪を犯している」という自覚ある告白だ。私たちを赦し、すべての悪からきよめてくださるという神の約束に信頼することだ。そして赦された神の子として、赦され続ける生き方にとどまることだ。
「子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていないさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」第一ヨハネ2:28
万物の終わりが近づいている。だから、祈りのために目を覚ましていよう。(第一ペテロ4:7)新たなニュースを見て愕然としたあと、スポーツニュースで気を紛らわせるよりも、むしろスイッチを消して、画面の向こうの人々のために、そして自分自身と周囲の人々のために祈る者になろうではないか。