『神の民の行動基準』 Acts5.1-11
大沼 孝(総主事)

 最近、S.ハワーワスとW.H.ウィリモンの共著である『旅する神の民』という本を読みました。その本の中で、使徒の働き5章1-11節のアナニヤとサッピラの事件に関する記事に強く心が留まりました。著者が語っていることを、私なり理解でまとめると次のようなことです。

 ルカの書いた『ルカ福音書』と『使徒の働き』という一連の2つの文書において、教会(エクレシア;「呼び出された者」の意味)という言葉が初めて使われるのは、この5章11節です。生み出されたばかりの教会が真の教会となるために最初にぶつかった試練は、教会における虚偽の問題でした。

 初代教会では4章32-37節に報告されているように、富んでいる信者が持ち物を教会に寄付することによって、教会の活動が維持されていたのです。6章を見ますと、特に寡婦に対する生活援助に教会は大きな努力を注いでいたことが分かります。人々はキリスト者になったとき、それまでの金銭を自分のために蓄える生活ではなく、富は自分に対する神さまの祝福として、喜んで富を他者に与えるライフスタイルへと変えられていったのです。

 つまり、教会は神の民として、神さまの御性質を反映させた群れとなるように召されたのです。それゆえ、教会は聖書の言葉に基礎付けられ、聖書の原理を行動基準とする共同体として形作られなければならなかったのです。そうでなければ、教会は真の意味で教会ではないのです。

 ですから、その教会に虚偽が入り込むことは、教会の命を失わせることになるのです。それゆえにサタンはアナニヤとサッピラ夫妻の心を奪い、土地の代金を献金するという教会に対する貢献の陰に、虚偽を入り込ませようとしたのです。

 一方、ペテロは生まれたばかりの教会の命を守るために、アナニヤとサッピラ夫妻がサタンに心を奪われて、彼らが持ち込んだ虚偽に真っ向から対決しなければならなかったのです。

 その結果、教会は教会に対して多大な貢献をした資産家の信者を失いました。そして、教会は神の民にとって、神を欺くことの報いは死であることを、非常な恐怖と共に学んだのでした。

 この箇所を読み、私は慄然としました。神さまは虚偽に対しては死で報いる方であるのなら、ペテロと同じ生ける神を信ずる者として、自分自身のうちにも虚偽が入り込んでいないか、私は厳しく自己吟味しなければならない、と思うのです。

 著者は言います。「私たちの活動の一切は、神の民が神と共にあるために、どれだけ役立っているかという礼拝的な基準でのみ評価されなければならない。」と。

虚偽を直視しないことの代価は人の予想以上に高いのです。それは神の民として生きることの終わり以外の何ものでもないのです。生まれたばかりの教会は、5章では虚偽の問題、6章ではアドミニストレーション(管理運営)の問題、7章では社会からの強烈な迫害の問題と次々に試練に直面していきました。

 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1.8)というイエス様が授けた世界宣教の戦略は、教会が伝道のプロジェクトを何か企画して推進されていったというよりも、神の民が聖霊を受けたものとして、様々な試練に聖書的原則に従がって対応し続けて行ったことを通して実現されていったと言うべきでしょう。そこにおいて最も必要なことは、神の民が神の民としての性質を身に付けつつ生きることだったのです。そのために神さまは、神の民のあり方を厳しく仕込んでくださったのです。神の民は神に対する大きな恐れの中で、神の民のあり方を学び続けたのです。

 私たちキリスト者学生会に集う学生たちもまた卒業生たちも、そして主事たちも、神の民が神の民として歩むことに役立つことを唯一の行動基準として歩んで行こうではありませんか。


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