●『夏期学校に期待する』 大沼 孝(総主事) |
8月9月は夏期学校のシーズンです。各地区では、準備委員の方々の献身的な奉仕によって準備が進められています。沢山の方々が参加して、心の奥底に残る体験をして欲しいと願っています。
夏期学校はKGKにとって恒例の行事になっていますけれども、夏期学校にはどんな意義があるのでしょうか。
古い本ですが、犬養道子氏の『聖書の天地』に次のような文章があり、なぜ夏期学校のような場が大切なのかに示唆を与えてくれています。
『Aの月賦(何のことはない、借金と同じだ)でこれを買って、Bのクレジット24ヶ月で
あれを買って、Cのカードでハワイに行って・・・おのれ中心の「マイライフ」ブルジョワジイは、聖書の黙示録がはげしく突くように、「熱くもなければ冷たくもない」。「吐き出すより他、仕方がない」が、そのようなブルジョワ心的態度の中産階級が主軸をなす国で、彼らを吐き出したら何が残るのか。吐き出すことは出来ない。出来ぬどころか、彼らのうつろさを満たしたくて心溢れている第一の人はキリストである。
どうしたらよいか。
聖書のメッセージの最も入りにくい、「かなもの金物のくっついた」その場に対しては、まず、忍耐と堅忍の「時間」がいる。いまだ「金物」のくっつきにくい子供たちや、幸いなる天の配慮によって万人に与えられた「求めに渇く」年代すなわち思春期を相手にも「個」のかけがえのなさと「出会い」のよろこびと、「生は恒久の前進変容で、これでよいと落ち着いたとき生は死ぬ」ことを少しずつ知らせる、真の意味での教育。これは私立施設でなければどうにもならぬ。スカウトやキャンプ生活を通しての「共同体」のよろこびの体験、カウンセリングによる1対1のコンタクト、そしてちっぽけなおのれを出て世界を見る視界の拡がりのチャンスの提供・・・ちがう思考・発想法の学習や、生活水準の全くちがう国への旅行・・・そんなところから少しずつはじめるより他仕方がない。
島国に加えての身内根性----これこそは、破られねばならぬ日本人の「狭さ」である。狭さの中に安住する限り、「出会い」はなくて「つきあい」のみとなってしまう。「つきあい」は真に人間的なコミュニオンを決して生み出さぬ。』
夏期学校には、「出会いの喜び」と「1対1のコンタクト」と「共同体の喜びの体験」がある。私は期待し祈る。準備委員の方々も期待して欲しい。今年も夏期学校の参加者が「つきあい」の浅いレベルではなく、イエス・キリストとキリストにある「兄弟姉妹」との「出会い」を体験することを。私たちの同朋の心のうつろさをキリストは満たすために夏期学校を用いようとしていることを。
まだ参加するかどうか迷っている方がいらしたら、どうか夏期学校に期待しください。夏期学校はあなたを縛っている何かの「狭さ」を破るチャンスを提供することでしょう。