『ロード オブ・ザ リング』
フィル・マイルズ(関西地区主事)

 大変でした。大学に入った時期のことです。僕が一回生として勉強していたのは哲学、人類学と美術学でした。哲学の先生は「現代主義」を信じる反キリスト教の立場で、人類学の先生は「相対主義」者であり反キリスト教の立場でもありました。そして美術の先生は熱心なマルクス主義の人ばかりで、やはり反キリスト教の立場でした。若いクリスチャンの僕にとって、大学は戦場のような所になりました。

 この闘いのため、クリスチャンの助けを得られたらいいと思いましたが、僕が知っているクリスチャンでそれができそうな人はあまりいませんでした。逆に、僕の勉強をあまり理解しないクリスチャンがいたのです。「哲学は信仰を弱めるものだから、勉強しないほうがいい。」とか、「芸術や美術はこの世のものだから、クリスチャンにはそういう学びはふさわしくない。」というような話も聞きました。「小説というのは嘘ばかりだから、クリスチャンだったら読まないほうがいい。」と、ある友人は忠告してくれました。

 僕は二重人格になりそうでした。学問の世界と信仰の世界を別々で考えることしかないように思えました。でも、やはり、それはあり得ないことだと深く感じました。もちろん、二つのどちらかだけを選ぶ可能性もありました。多くの人は、このジレンマを解決するため、学問と信仰どちらか一つだけを選びますが、そうではなくて、両方を一致させることはできるのではないかと思うようになりました。

 そんなときにクリスチャンの作家達は、特に僕を助けてくれました。C.S.ルイスやフランシス・シェーファーの本を読み始めて、福音的な信仰と学問の世界をどのように全体にまとめることができるかが、だんだんと分かるようになりました。結果として、僕の信仰は強められ、また各々の学問についても未信者の友人と比べて、より深く考えることができました。そしてもちろん、それはただ机上論的な学びではなく、自分自身、一人の人間としてのアイデンティティーに対しても、非常に大切な経験でした。

 僕を助けてくれたもう一人は、J.R.R.トールキン(1892年−1973年)という作家でした。彼はイギリスのカトリック信者で、オクスフォード大学等で教授として働きながら、ファンタジー小説を書いたり、クリスチャンの視点から芸術を見る文書を書いたりしました。

 トールキンの最も有名な本は、“The Lord of the Rings”というものです。それは日本語では「指輪物語」と呼ばれていますが、最近公開された映画のほうでは、「ロード・オブ・ザ・リング」と呼ばれています。“The Lord of the Rings”は第二次世界大戦の後出版されましたが、その内容はトールキンの一生の想像的に現しています。今となっては不思議なことですが、当初出版時、出版社はこの本はそれ程売れないと思っていたようです。しかし予想に反して、世界中でこの本は人気者になっていきました。大学生たちはトールキンのサークルもあちこちで作ったりもしました。(僕のオーストラリアの大学にもありました。現在も続いているはずです。)

 二十世紀の終わりに、イギリスの新聞が「二十世紀最も優れたイギリスの本はどれか」というアンケートを出し、そのトップになったのが“The Lord of the Rings”でした。その後、「すべての歴史中で最も優れたイギリスの本はどれか」という他の調査もありました。 “Pride and Prejudice”や“David Copperfield”なども人気がありましたが、またしても“The Lord of the Rings”は一番になりました。本当に愛されている本だと思います。僕も大好きです。実は、去年から息子のトビーにそれをちょっとずつ読んでいるのですが、彼もこの物語を大変愛しています。

 物語の内容を教えるつもりではありませんが、この本がどのようにキリスト教のことを表現しているかということを少し説明したいと思います。多くのキリスト教的表現がなされているのですが、おそらく最も中心的なテーマは第1コリント1章27〜29節において表されていることでしょう。知恵がない人こそ、力がない人こそ、様々な素晴らしいことができるというテーマは“The Lord of the Rings”の重要な内容です。主人公のフロドという人物は、大変背の低いホビット(小人)という部族の一人ですが、このホビットは他の部族から卑下はされないまでも、重要な存在としては認められていない部族です。しかしホビットである彼こそが、世の中で偉人と呼ばれる人々が出来ないことを可能とします。同時に、物語の中で、一見重要とされていなそうな人々が親愛的に描かれています。王様や偉人と呼ばれる人だけに価値があるわけではなく、すべての人の命に価値があるという聖書的な考え方を、この本を通して学ぶことができます。

 もう1つのテーマは、権力の危険性というものです。物語の中で、多くの人が正しい目的のため自ら力を得ようとしますが、ほとんどの場合、いつしかそれは誘惑となり、人々はそれに負けてしまうのです。創世記3章を始め、権力の危険性は聖書の大きなテーマの1つなのです。もちろん、イエスは権力の道ではなく、苦しみとや謙遜の道を選び、そのために誤解されもしました。現代のクリスチャンは権力の危険性を十分意識していないかもしれません。しかしトールキンの本では、その真実が恐ろしいほど上手に表現されています。

 罪の虚しさ、友人関係の大切さ、などもこの本の中で表されていますが、ここで全てを紹介することはできません。ぜひ、トールキンの本を読んで、自分でその意味をゆっくり振り返ってみてください。「指輪物語」は非常に長い物語ですから、まず「ホビットの冒険」という本を読んでみることをお勧めします。こちらは子供向けのもので、短くてわかりやすい上に、「指輪物語」の全編ともいえる内容になっています。また、映画「ロード・オブ・ザ・リング」を見てみるのもいいでしょう。ただし、映像としては非常に上手に作られていますが、物語の重要な内容は映画化によって失われています。興味が本当に出たら、次に「シルマリルの物語」を読んでみるのもいいでしょう。

 しかし、この紹介を書きながらも、実のところ僕は、日本のクリスチャン学生がこの物語を本当に好むだろうかと疑問を抱いています。このテーマが多くの人の心に当てはまるのだろうかと思うのです。これはイギリス系文化とアメリカ系文化の違いとも言えます。イギリス系文化では小説は非常に大切にされて、作家たちは自国の文化に大きく影響を受けています。しかしアメリカはそれとは少々異なり、音楽や映画の方が文化の中心となっています。作品の内容も国や文化によって違うわけです。(オーストラリアは両方の影響に預かっていますが。)そのため、トールキンの本はイギリスとアメリカでは認められ方が異なるのです。もちろん、トールキンは自国(イギリス)文化の中で本を書きました。イギリス文化を深く学んだり、体験したりした上で、物語を書いていったため、イギリス人の心にその内容は特に当てはまります。ですから、日本のクリスチャン学生の多くは、トールキンの本が大好きとは言えないかもしれません。文化が違いますし、日本人の感覚もイギリスのそれとは異なったものですから。いやむしろ、読書が好きな学生自体が少ないようです!面白い物語ではありますが、トールキン大好きな日本人は少ないように思います。

 しかし、もしこの物語に日本人の心に当てはまる何かがあれば、それは素晴らしいことだと思うのです。トールキンの本が好きな人はクリスチャンだけではありません。一般の人も喜んで読んでいます。トールキンの作品を読むことで、彼らはキリスト教のメッセージをある程度味わうことが出来ます。同じように、日本人に福音を伝えるため、日本のクリスチャンが何かを作ることが出来たら素晴らしいと思います。小説に限らず、日本の文化の中で、聖書の意味を表現するものがあればとても良いのです。

 もちろん、これまで多くの日本人のクリスチャン作家などが活動していますし、良いものも作っています。けれども異文化のバックグラウンドを持つ僕には、日本の教会に関して、気になるところがあるのです。それは日本のクリスチャンのアイデンティティーの問題です。多くの日本のクリスチャンは、クリスチャンとしてのアイデンティティーと、日本人としてのアイデンティティーを区別して理解しているような気がします。それはまるで二重人格のようなものです。教会建築を例にすると、多くの日本のクリスチャンは、白い十字架が切妻に立ててある建物を理想としているようです。しかしそれはアメリカの東部で生まれたスタイルですから、それを追及するということは「クリスチャンになること=アメリカ人になること」ということと同じです。同様に、「日本人らしい生活」と「クリスチャン生活」を一致させることはできない、日本の未信者はこのように考えているかもしれません。日本のクリスチャンが適切な分野で、「日本人」というアイデンティティーと「クリスチャン」というアイデンティティーを深くまとめることが出来たら、素晴らしいのではないでしょうか。


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