●『見限り人』 竹内 誠(関東地区主事) |
久しぶりにアルバムを開いた。大学の一年生から四年生にかけての友人との思い出が収めてあるアルバムだ。一通り見終わってアルバムを閉じる時、ある事に気が付いた。それまでアルバムを開く度に、虚ろな眼をした何処となく陰のある自分から、キリスト者として様々な奉仕に携る自分への変化(成長)を見出していたのだが、今回は違った。自分の周囲に写っている顔ぶれが変わっているのだ。低学年時に写っている自分の周りに居る顔ぶれが、高学年になるにつれてなくなっているのである。そしてそれらの顔ぶれはことごとくキリスト者ではない友人のものなのだ。そして高学年時の写真に収まっているのは、ことごとくキリスト者の友人の顔なのである。
私は学生時代よく伝道したつもりだ。伝道こそが、最も優先されるべき事柄であり、他の事柄は付随的な事柄であると考えていた。しかし徐々に自分が語る内容(福音)と自分自身の姿とのギャップの大きさに気付き、やはり救いは全人格に及ぶべきものであり、また聖書の世界観を培うこととその実践が求められていると確信するに至った。そして『全生活を通しての証』というスローガンを掲げ、KGKの活動のあらゆる奉仕者リストに名を連ねるようにもなった。そしてこの国の宣教において長い目で見たときに必ず『全生活を通しての証』が実り、世界観を身に付けることが特に学生に求められているという確信を理由に、そして様々な奉仕を理由に、いつしかキリスト者との交流にばかり身を置くようになったのである。それ故アルバムの終盤になると、未信の友の顔が無くなっているのだ・・・。
今私は思う。私は『全生活を通しての証』を隠れ蓑とし、未信の友に直接口で福音を伝えることを怠っていなかっただろうか・・・。「自分は充分直接伝道した・・・でもダメだった・・・それはキリスト者としての世界観が欠けており、世との接点を大切にしていなかったからだ・・・だから今はキリスト者としての成長を求めよう」それは誤った判断ではなかっただろうが、それを理由に未信の友との交流を空しきものとし切り捨ててはいなかっただろうか・・・。誘惑に負けそうだからと、彼らとの交流を全て絶ってはいなかっただろうか・・・。学校の勉強、クリスチャン同士の交わり、バイト、サークル、奉仕・・・それらはどれも本当に大切なものであるが、自分の時間管理の在り方には目をつむり、それらを理由に未信の友への直接的な伝道に見切りを付けてはいなかっただろうか・・・。
教会の牧師、兄弟姉妹は見限ってもおかしくない未信の自分に、根気強く付き合ってくれたのではなかったか・・・。キリストは見切りを付けてもおかしくない罪人の自分を忍耐し、赦し、招いて下さったのではなかったか・・・。
あなたのアルバムに収められてある写真・・・そこに写る未信の友の顔はこれからフレームの外に出て行くのだろうか・・・。そうならないことを心から願う。