●「私の友のため・・・」 王美珠(関西地区主事) |
− 初めに −
我々が住んでいる環境は非人格的なものに多く囲まれています。ATMにしろ、電子メールにしろ、人と接すること無しで済むことです。ある意味で、人と人との間における交流が希薄になってきているとも言えるのではないでしょうか。
数年前、1つ歴史的な出来事がありました。それは、クーロン技術によって一頭の羊(ドリー)がこの世に誕生してきた記事でした。まさか!近い将来、クーロン人間も可能なのではないかと思う人もいるに違いありません。それらのことからどんな意味をしていますか。もちろん、科学進歩に伴ってより効果的な治療ができると期待されていますが、恐ろしい一面もあります。表面的に人間を救おうという立派な捉え方ができるにもかかわらず、残念ながら、裏にある原動力というのは商売の手段の1つでもあると考えられます。そうすると、私たちは単なる1つの商品に過ぎないのを意味し、特別な存在として神様に造られたという意味がなくなります。
どうしてこういうことを書きましたか。このわずかなスペースで、学生の皆さんと一緒に伝道について考えていきたいです。滅んでいく魂への関心、また、より人格的に友達とどう接すれば良いのかを見ていきたいです。
キリスト者である私たちは友達への伝道を考えると、よく「証し」と「救い」が使われています。この2つの言葉は一体どんな意味があるのかを押さえておきたいです。
− 「証」について −
「証する」という言葉はギリシャ語でmatureo です。「証」はmaturosです。英語のmartyr(殉教者)の語源はこのギリシャ語から来たのです。
ヨハネ15:13では、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」人を愛することは、時に死に至ることもあります。日本の歴史をたどると、確かに徳川家康の時に、多くの殉教者が出ました。ある記録により、1613年の10月に約3万人のキリスト者が九州で火で 焼かれたそうです。ですから、本来の証しの意味というのは死の覚悟の上で、献身的にすべてをかけて神の真実を語り続けることです。
ヨハネ13:34-35を読むと、イエス様の弟子であるかどうかは、愛に満ちている証拠があるかどうかが問われています。愛の定義は様々であり、簡単に言うと、愛は意志の成すわざで感情的に振り回されられないものです。要するに、ある人や事柄に対するコミットメント(commitment)なのです。この間、テレビで見たインタビューを思い出しました。会社を経営した上で最も大切なこととは何かを日産自動車の社長さんに尋ねた時に、彼はこう答えました。社員のコミットメント という返答でした。私たちでも例外ではありません。学内グループにしろ、グループのメンバーにしろ、あるいは求道者にしろコミットしなければなりません。証するには、大宣教命令へのコミットメント、また、神へのコミットメントにもなります。
− 「救い」について −
救いのギリシャ語はsoteriaです。意味として治癒・回復・贖い・救済・解放などです。いずれも、人間を不幸にする圧迫、脅威、危険から解放し、健康、自由、真の幸福を与える意味です。旧約聖書の shalom と同じ意味ですね。即ち、霊的な癒しだけではなく、社会的な面や身体的な面においても、包括的な意味があり、全人格主義(wholeness)の意味もあります。イエス様は福音書の中で、まさに、こういうことを示して下さいます。
例えば、国際飢餓対策という団体は福音を伝える前に、まず、物理的な問題を解決しようとしている理念に基づいているのです。マザーテレサも全人格主義の働き方をしていました。私たちの霊的な部分は他の部分と切り離せない、いや、切り離してはいけないのです。
もし、私たちは聖書的な救いの理解を真剣に取り組もうとするならば、今までやってきたことをどう変わるでしょうか。
友達と接する時に、彼らは単なる伝道の対象ばかりではなく、まず、一人前の人間として扱うべきだと思います。友達の価値観、ニーズ、考えていることなどを探る必要があります。そうでないと、いくら神様のことを話そうとしていても、不自然でどうも噛み合わないところで終わってしまうことが少なくないです。友達と接すると、様々な面から(霊的・精神的・肉体的・社会的)配慮しなければなりません。どんな接点から持っていけば良いのか、常に神様に知恵を求め続けなければなりません。
KGKでは、固定的な伝道方を用いていないことは、人間の多様性を尊重していることに他ならないです。イエス様の生涯を見ると、人と接する時に、多様性に富んでいる接し方を示してくれました。だからと言って、聖書に書かれたパターンしかないとは言い切れません。というのは、神様は創造主であるので、私たちにも独創的なアイデアを与えてくださいます。
では、友達との接し方をここで提案したいです。
− 実践 −
1. 相手中心
友達(悩み、趣味、関心ごと、価値観、世界観、家族背景)によく耳を傾けることです。
また、相手の存在を意識し、積極的に橋渡しを作ろうとすることです。友達のことを常に祈り、語る機会を主に求めます(エペソ6:19)。
2. 状況への適応
イエス様はそれぞれに対してどう適応していたのでしょうか。次の箇所から学びましょう。
ルカ10:17-31 永遠のいのちを自分のものにしたい役人に対して、イエスは「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」と。
ヨハネ20:24-29 疑い深いトマスにイエスは「・・・手を伸ばして、わたしのわきに差しいれなさい」と。ルカ19:1-10 は収税人のザアカイにイエスは「今日は、あなたの家に泊まる・・・」と。ヨハネ8:1~11 姦淫で捕えられた女にイエスは「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と。今、あなたのの友達には必要なものとは何でしょう?
3. 信頼関係を築く
まず、友達をありのままに受け入れることが大事です。友達のライフスタイルに賛成しなくても、疑問を感じながらも、条件なしで彼らを受け入れることことによって信頼関係を築く第一歩です。そして、守秘義務に努め、信頼に値する友として訴えるのです。
4. 正直に関わる
裏表を持たずに友人と接することです。自分の短所や長所、また、嬉しい時も、悲しい時も、隠さないように関わることです。自分の揚げ足を他人に引っ張られる恐れがあるかもしれませんが、自己啓示という冒険精神を持っていれば、神様はそれを用いられると思います。
5. コミュニケーション(対話する)
一方的に話すのではなく、むしろ人に興味を持ち、質問をし、キャッチ・バールのように会話をすることが人間らしさを取り戻すのではないかと思います。つまり、よく聞いてから応答することが好ましいです。特に、学内活動やキャンプに参加する未信者に彼らの話を積極的に聞き入れ、時に、ふさわしい応答をするのです。
− 最後に −
この4年間、また、2年間で一緒に過す友人に対して、あなたの関心度はどのぐらいあるのでしょうか。今まで、あなたは犠牲の伴う証をしてきたのでしょうか。今回、ここで分かち合ったことはあくまでも、私見に過ぎないものであり、決して絶対的なものではありません。皆さん、参考程度にしてください。