「ちゅらさん」
高橋 利枝(関東地区主事)

 昨年、NHKの朝の連ドラ「ちゅらさん」が好視聴率をマークした。私の周りにも(牧師を含めて)観ている人が多かった。実は、私もつい観てしまい、瞬間的にゴーヤーマンにもはまってしまった。しかし、一見、ほのぼのホームドラマのようでありながら、かなり安易で危ないストーリー展開だった。観ているうちに、だんだん馬鹿らしく思えてしまったのは、私だけではあるまい。例えば、主人公の恵里(「えりい」と発音)は、幼い頃に結婚の約束をした男の子との結婚を信じ続け、大人になって(奇跡的に)同じ職場に就職し、お付き合いもせずに結婚を決めてしまう。しかも、結婚に合意した時、相手には交際中の女性がいたが、この3人の人間関係はその後も崩れずに続く。もう一組の男女も、突然占いで示され結婚。幸せな結婚生活を送る。アンビリーバボー!

 このドラマのキーワードは、「運命」だったように思う。運命を信じて生きることが幸せをつかむことなのだ。運命とは、人の意志を超えて人生を操る何かだ。実際、多くの日本人は、「運命」を信じて生きているのではないだろうか。メディアに「運命」という言葉が出てくる回数はかなりのものだし、占いの流行もその現われと言える。占いは、自分の運命を先読みするものだからだ。

 ところで、「運命」とか「運」を信じているのは、世の人だけではないように思う。クリスチャンになっても、「運」を信じる癖から抜け出られないでいる人が多いのではないだろうか。つい、口から「今日はついてないな。」とか、「ラッキー」とかいう言葉が出てしまうのだ。それに、「運」というものがあった方が、何かと都合がいいのだ。失敗したときに「運が悪かった。」と責任転嫁できるし、「運がなかった。」と諦める口実になるからだ。これをクリスチャンは、「運」と呼ばずに「みこころじゃなかった」と呼んで逃げていることはないだろうか。

 一方で、日本人の多くが、運命を操る何かの存在を認めているのだとしたら、神を信じることからそう離れていないのかもしれないとも思う。すべてのことが偶然ではないこと、人生には自分ではどうにもならないことがあることに気づくとき、背後におられる神の存在を知ることができるのかもしれない。(使徒の働き17:24ー28)

 自分の弱さから逃げずに、人生を歩める人は幸いだ。すべてのことに主のご支配を見出し、感謝できる人は幸いだ。


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