「生・性・聖」 その1
高木実(関西地区主事)

 (これから数回に渡ってお伝えするものは、1998年3月に九州地区の春期学校の主題講演で「イシュとイシャ」というテーマで4回に渡って語ったものを、今回の為に多少修正加筆したものです。)

《全体のイントロダクション》

 若い皆さんにとっては興味、関心があり、また非常に切実な問題でもあると思いますが、男女関係、性の問題、そして、このような性の現実を持った私たちとは、一体どういうものなのか・・・?ということを「生・性・聖」というテーマで共に考えたいと思います。

 聖書に基づいて「性」あるいは異性との関係ということをどのように捉えたら良いのか・・・?
 そして、そのような私たちの現実と、聖書の語る「福音」(救い)との関係は、一体どうなっているのか・・・?
 聖書に語られている「福音」というものが、この性の課題に関しても私たちをどのように変えていくのか・・・?
 このようなことを数回にわたってお伝えしたいと思っています。

 そして、そういうことを、私たちのいのち(生)、私たちの性、私たちのきよさ(聖)・・・そういう三つの「せい」・・・つまり「生・性・聖」というテーマで学びたい。
 さらに、このようなテーマとの関係の中で、私たち人間とは・・・そしてクリスチャンとは一体どういうものなのか・・・?
 そして さらに、それを「福音の全体像」・・・私たちの「救い」というものの「教理的な全体像」・・・あるいは神さまの「救い」のご計画の「全体像」の中で捉えて、なるべく秩序立ててお伝えしようと思っています。

 つまり、こういう性の問題に関しても、聖書から「教理的に」「体系的に」全体を理解するようにして学ぶ、ということです。
 そういうことは、とても重要なことだと思います。
 何故か・・・?、と言いますと、最近は新興宗教や異端の横行が激しくて、その中のあるものに関しては、そういう体系的な全体像、あるいは人間や世界の現実を見つめ、それを理解しようとする原理のようなものを持っていて、多くの若者がそれに共鳴していっているからです。
 ある宗教団体から脱会した人の証言を聞くと、「その教えによって、自分のことや世界の(起源や歴史)の意味や方向性が説明され、それで全てが分ったような気がした。」と言っていました。
 また他の宗教団体に関係した人の話を聞いても、「自分の性的な欲望をどのようにして抑えるべきか、ということを含め、自分の生きるべき生き方が分かった。」と言っていました。
 それが正しいか正しくないか、真理か否か・・・ということは別として、それなりの人間の現実に対する見方や考え方を持っている訳で、それによって世界や歴史や人間の現実というものを説明しようと試みている・・・。
 そして、それがある人達の心を捕らえているのです。

 実は聖書が示す真理にも、否、聖書にこそ、そのような人間や世界の現実を理解するための体系、といったものがあるのです。
 ですから、私たちも聖書を正しく理解しようとするときには、ある一部や断片ではなく、なるべく全体を理解するように心がける必要がある、ということです。
 しかも、それと共に、このような性の問題を正しく理解しようとするときにも、聖書全体から理解することが大事だ、というのが私の問題意識です。

 それでは、聖書の全体を理解するための簡単なアウトラインを紹介したいと思います。
 まず、聖書が示す世界(歴史)には、初め(創造)があり、終り(終末)があります。
 世界(歴史)の始まりが、神が全宇宙、天地万物を造った、という「創造」であり、その終りは、神が全てのものを最終的に審判する、という「終末」ということです。
 そして、この歴史の全体を聖書に基づいて理解するのに、大変に役立つ、次の4つの事柄があります。
  1)創造
2)堕落  (罪)
3)贖罪  (十字架)
4)終末  (完全成就)
  ・・・ 「善なるもの」(良きもの)
  ・・・ 「悪しきもの」(悪いもの)
  ・・・ 「新しきもの」
  ・・・ 「全きもの」(完全なもの)

 この4つのポイントは、何事に関しても、私たちが聖書的に物事を考える上での重要なガイドラインである、とジョン・ストットは指摘しています。(ジョン・ストット「地の塩、世の光」参照)
 そして、それは性に対する考え方、捉え方を整理し、正しく理解する上でも大事なガイドラインだと言えます。

 つまり極めて簡単に言うならば、性は、神の創造の御業として、本来「良きもの」である・・・。
 しかし、今、現在、私たちの性を取りまく現実は、人間の罪の堕落の結果、その罪の影響の下にあり、それが淫らな「汚れたもの」としての様相を呈している・・・。
 十字架の贖いを得ている者にとっては、そのような罪の影響下にありながらも、それが「新しいもの」として新たなる関係が開かれる・・・。
 さらに、それは終末における私たちの救いの完全成就においてこそ、「全きもの」とされる・・・。
 そのような全体的な見通しが与えられている、ということです。

 今後、聖書の歴史の始めから終わりまでを詳しく説明していくことはできませんけれども、このようなポイントを確認しながら、「生・性・聖」ということ踏まえつつ、数回に渡ってお伝えしていきたい、と思っています。


《予告編》

 まず私たち、人間とは一体何者なのか...、自分とは一体どういう者なのか...ということを考える時、一番始めの「生」について考え、そこから、次の「性」について考えなくてはなりません。
 そのように、まず一つ目の「生」について考えて、次に二つ目の「性」について考えるのに、創世記は絶好の材料(教科書、テキスト)となります。
 次回は、その創世記の「創造」から「生」について学びます。


[バックナンバーに戻る]